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宮地嶽神社
みやじだけじんじゃ
福岡県福津市宮司元町7−1
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旧県社 |
福津市(旧津屋崎)にある神社。福岡では有名だ。
日本一の大注連縄、横穴式石室を持つ宮地嶽大塚古墳もある。
「宮地嶽」の社号は、
神功皇后御征韓のおり、この地に御滞在になり
後方の山から大海原を見渡され、祭壇を設けて天神地祇を祭られたことから。
神社後方には、奥宮八社、民家村があり、
宮地嶽自然歩道が宮地嶽山頂・在自山山頂へ続く。
在自山山頂から下ると金毘羅神社がある。
参拝時は安物のカメラだったので、画像に手を加えている。
雨の境内は清々しくて良い。参道は銀杏の落ち葉で黄金色。
雨の境内 |
日本一の大注連縄は、重量五トン・長さ13.5m・直径2.5m。
参道と鳥居と在自山 |
楼門 | 境内の須賀神社 |
境内 |
拝殿 | 大注連縄 |
宮地嶽神社 旧県社 宗像郡津屋崎宮司 鹿児島本線 福間駅より北一.五粁 祭神 息長足毘売命 勝村大神 勝頼大神 例祭 四月四日〜六日 九月二一日〜二三日 神紋 三階松 本殿 流造 七〇坪 境内 五〇〇〇〇坪 末社 五社 宝物 (国宝)金銅壷鐙外一八点、代表的宝物、日本一の横穴式石室を持つ古墳 氏子 三五〇戸 崇敬者 三百万人 神事と芸能 玉換祭(一月一〇日夜) 宮座祭(一月一一日早朝) 由緒沿革 当神社の創建は約千七百年前。宗 像神社所蔵の正平二三年(五〇〇年前)年中 行事記の中に当神社の神事の記載があり或は 宗像大宮司家より奉呈された祭粢田御供田九 拝田等の名称が今尚当神社の近くに残ってい る点等から考えても既に数百年程前から相当 盛大な神社であった事が偲ばれる。当神社の 社名は神功皇后が御征韓の折、この地に暫く 御滞在になり後方の山から大海原を見渡され 祭壇を設けて天神地祇を祭られ「天命を奉じ て彼の地に渡らむ希わくば開運を垂れ給え」 と御祈願になり新羅征伐の御船出を此の地よ りなされた処から「宮地」と呼ばれ。背後の 山を「宮地嶽」と称しこれが社名となった。 そして神功皇后が信仰されていた天津神の遥 拝祠を建て勝頼勝村の二柱の御従神に此の祠 掌を命ぜられ、後皇后の御神魂を合祭され、 此処に初めて宮地嶽神社が設立された。(神社本庁別表神社) −『神社名鑑』− |
奥宮八社(七福神社・稲荷神社・不動神社・万地地蔵・淡島神社・
濡髪大明神・三宝荒神・薬師神社)の不動には横穴式石室がある。
第一参拝所 七福神社 | 第二参拝所 稲荷神社 | 第四参拝所 万地地蔵 |
第三参拝所 不動神社 | 第五参拝所 淡島神社 第六参拝所 濡髪大明神 |
第七参拝所 三宝荒神 | 第八参拝所 薬師神社 |
宮地嶽自然歩道は、紅葉が美しい。
在自山山頂には、金毘羅神社奥宮、山頂を下ると金毘羅神社がある。
金毘羅神社の近くに「お夏大明神」の祠が祀られている。
天明三年(1783)の凶作の時、
年貢米の量を決める箕さばき(モミを脱穀して米の量を計る)を行ったお夏は
農民達を救うため、わざと実入りのモミをモミ殻として振い落し、
米の量を少なく見せかけた。
これに怒った役人によって、お夏は打ち首になってしまった。
宮地嶽自然歩道 |
山頂から | 金毘羅奥宮 |
金毘羅神社 | 金毘羅神社 | お夏大明神 |
【 宮地嶽神社 】