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英彦山神宮
ひこさんじんぐう
福岡県田川郡添田町大字英彦山1
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旧官幣中社 |
福岡県の添田町にある。
JR日田彦山線の彦山駅から500号線を東へ4Kmほど行くと、
道路脇に、「銅の鳥居」が立っている。
「銅の鳥居」から、なだらかな石段の参道を500mほど登ると、
左手に赤い社殿の奉幣殿がある。
英彦山は、北岳・中岳・南岳の3つの嶺で構成される修験の霊場。
中央の中岳山頂に、英彦山神宮上宮があり、
奉幣殿からの登山道に、下宮・中宮がある。
参拝は九月で、参拝当日は上宮まで登るつもりだったが、
少し登って断念。
九月なのに、妙に暑い日だった。
いつか、上宮に登ってから掲載しようと考えていたが、
長野に引越して以後、九州へ行く機会がなく、
中途半端だが、奉幣殿のみの掲載なのだ。
英彦山と書いて、「ひこさん」と読み、
天照大神の御子・天忍骨尊(日の御子)を祀る神社。
昔は「彦山」のみを用いていたが、
享保十四年(1729)、霊元法皇より、天下に抜きん出ている霊山として
「英」の美称を許され、英彦山と書かれるようになった。
創祀年代は不詳だが、一説に、
継体天皇二十五年(531)、魏の国の僧善正が、山中で修行中、
猟師・藤原恒雄と遭い、殺生の罪を説き聞かせた。
だが、恒雄は、その戒めを聞かず猟を続け、一頭の白鹿を射た。
その時、3羽の鷹が出現し、鹿に檜の葉に浸した水を与えると、
鹿は蘇生して逃げ去った。
その光景を見た恒雄は、鹿が神の化身であったと悟り、
善正の弟子となって上宮三社を建立したという。
その後、当社は衰退していた、
弘仁十年(819)、法蓮が、ある日この山で、
飛来した鷹の落とした羽に「日子を彦と改めよ」と記されているのを見、
勅命を得て、当山を再興した。
以後、西国修験道の拠点として、
「嶺に三千人の仙人あり」と呼ばれるほどの霊場となったが、
明治の神仏分離に際し修験道廃止となり、英彦山神社と改称。
昭和五十年、英彦山神宮となった。
神紋は、「鷹の丸に二引」。
開山説話や中興説話に登場する鷹が用いられているのだろうか。
銅の鳥居 |
参道 | 参道中ほどの鳥居 |
参道 |
階段を上ると奉幣殿 | 奉幣殿横に上宮への参道 |
奉幣殿 |
境内の龍神様 | 上宮参道鳥居 | 上から |
奉幣殿賽銭箱に神紋 | 下宮 |
英彦山神宮略誌
御由緒英彦山は、古来から神の山として信仰されていた霊山で、御祭神が天照大神の御子、天忍穂耳命であるところから「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれていました。 嵯峨天皇の弘仁十年(八一九)詔により「日子」の二字を「彦」に改められ、次で、霊元法皇、享保十四年(一七二九)には、院宣により「英」の一字を賜り「英彦山」と改称され現在に至っています。 英彦山は、中世以降、神の信仰に仏教が習合され、修験道の道場「英彦山権現様」として栄えましたが、明治維新の神仏分離令により英彦山神社となり、昭和五十年六月二十四日、天皇陛下のお許しを得て、戦後、全国第三番目の「神宮」に改称され、英彦山神宮になっています。 御神徳 天照大神の御神勅により、この地に降臨された天忍穂耳命は、農業生産の守護神として、また鉱山・工場などの産業の守護神として崇敬されています。 −『平成祭データ』− |