[HOME]  >   [神社知識]  >
「郷土を救った人々 −義人を祀る神社−」 関東地方編
メニューを消去する。ページを印刷するために。 印刷用ページ



 昭和五十六年、神社新報社より発行された 「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」 という書籍がある。

 帯には、
激流渦まく水中に自ら人柱となって消えていった人々!
十年、十五年と独力山中の絶壁に水路を掘りつづけた人!
農民のため漁民のために、すすんで自らの生命を捧げた人々!
来年の種のためにと、餓死をしてまで籾を残していった人!
それらの人々に対する郷土の信仰は、この日本がつづくかぎり決して消えることがない。

そんな、郷土のため、人々のために犠牲になった人達、尽力した人達を祀る神社が地方にはある。
このページでは、「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」に載っている神社の要約などを中心に列記する。
近くを訪れた際には、一度足を運んでみたいという僕の願望のリストなのだ。

本ページは関東地方(神奈川県、埼玉県、東京都、群馬県、栃木県、茨城県、千葉県)のリストです


神奈川県
大稲荷神社境内 錦織神社 神奈川県小田原市城山1−22−1
【下田隼人】
 小田原の義民・下田隼人を合祀する。江戸前期の小田原藩主・稲葉正則が米以外に麦に対しても年貢を課そうとしたため、 万治三年(1660)年、足柄上・下郡の農民が騒ぎだし一揆が起きようとしていた。 関本村の名主・下田隼人は、これを鎮めて自らが年貢の軽減を藩主に直訴し、願いは聞き入れらたが、 強訴の罪状により小田原城下で斬首された。
 南足柄市関本の龍福寺には、下田隼人を顕彰するする石碑が建てられている。
参考:神奈川県HP
埼玉県
児玉神社境内 兵内神社(関兵内霊神社) 埼玉県児玉郡美里町関374
【遠藤兵内命】
 文久三年(1863)の創建。明和の中山道伝馬騒動の指導者で、当時の関村の名主であった遠藤兵内を祀る。
 中山道伝馬騒動とは、当時、来朝した朝鮮使節の接待費用として、農民達は従来にない高額の国役金を負担させられた直後にもかかわらず、交通量の増大する中山道において助郷(街道行き来する諸大名の荷物を運搬する役)の範囲拡大が命じられた。 その結果、明和元年の閏十二月から翌年の正月にかけて、武蔵・上野・下野・信濃の四ヶ国の中山道沿いの村々の農民二十万人が、新たに課せられた助郷役に抗議して蜂起した一大百姓一揆が発生した。 幕府は、この一揆を無視できず、関東郡代に指令して農民側の要求は受け入れられた。だが、四ヶ国の農民三百六十余名は処罪され、遠藤兵内は騒動の責任を問われ四十二歳の明和三年(1766)二月十三日処刑された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
神明社境内 いも神社 埼玉県所沢市中富1507
【吉田弥右衛門】
 当地は武蔵野台地のまん中にあります。土が乾ききっているところで、夏の干ばつによる農作物の被害が特にひどいところでした。
 南永井村(現在の所沢市南永井)の名主、吉田弥右衛門(よしだやえもん)はそんなところでもよくできるというサツマイモの話を聞き、その導入と普及に努めました。
 関東でのサツマイモの試作に最初に成功したのは、江戸の学者、青木昆陽(甘藷先生)で、享保20年(1735)のことでした。弥右衛門の試作はそれから16年後の寛延4年(1751)のことです。そのサツマイモは最初は飢饉に備えて作られましたが、すぐ農家の自家用の食料として積極的に作られるようになりました。それだけではありません。のちには江戸にたくさん現れた焼き芋屋用のいもとして、いいかえれば商品作物としても作られるようになり、貴重な現金収入源になりました。
 おかげで苦しかった人々の暮らしが楽になりました。
 神明社では、当地が「川越いも」の本場であることから、平成18年11月23日、作り初め255周年を記念して、弥右衛門さんの功績を称えるとともに、関東のサツマイモ作りの元祖である甘藷先生と合わせて『甘藷乃神(いものかみ)』としておまつりさせていただくことになりました。
東京都
調査中
群馬県
調査中
栃木県
高尾神社境内 喜国神社 栃木県宇都宮市御田長島町439
【鈴木源之丞命】
 寛延二年(1749)、肥前国島原から宇都宮城主となった松平忠怒は、藩の財政立て直しのため領内の農民に対し年貢米の増税を行った。これには反対した農民らによって一揆が発生。この一揆により年貢は従来通りとなったが、一揆の指導者であった鈴木源之丞ら三名は捕えられ町内を引廻しの上、打ち首となった。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
奈佐原神社境内 小出神社 栃木県鹿沼市奈佐原町516
【小出大助命】
 寛政年間、小出大助は善政を行い、村人の生活向上に努めた。問屋によって行われていた近郷農民の人夫としての強制徴発を禁じ、越後から農民を移住させて土地を与え開墾せしめて村を栄えさせた。 小出大助が飛騨国代官として栄転する際、奈佐原の村民は小出大助の仁政に感謝して、愛宕神社境内に生祠に祀り、明治二十年頃、愛宕神社が奈佐原神社へ合併された時に奈佐原神社境内に遷された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
鵜飼神社 栃木県鹿沼市藤江町東原
【鵜飼佐十郎命】
 明和の頃(1765〜)藤江村は壬生領であったが、三浦肥後守の支配のもと、黒川沿岸の開墾を命じられたが荒地開発は進まず、作付不能の地であった。にもかかわらず年貢を徴収され離村者が急増している状態だった。 その後天領となったことから鵜飼佐十郎は鹿沼十ヶ村の代官として赴任。減免を行い、黒川堤防工事を進めて善政を行った。藤江村の人々は鵜飼佐十郎に感謝し、 明和六年、生祠に祀った。創建の祭典には鵜飼佐十郎本人も参列したという。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
鹿島神社境内 包孝神社 栃木県佐野市戸奈良町2117
【石井包孝五右衛門命】
 弘化三年(1846)の創建。戸奈良村は彦間川と野上川の間に位置し、平地少なく沿岸の地は常に荒廃していた。文化年間、毎年数百両の私財を投じて堤防を築き河流の改造を行ったのが石井包孝五右衛門である。 また、桑苗を植え養蚕業を発展させ、織物業を興して村の子女を従事させ、各地に販売して得た売上高、年額五万両を窮乏救済にあてた。また飢饉の際には止むなく手放した村民の土地を、土地の価格が十倍になった時にも元の買値で売り戻すなど村民の生活を支援した。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
粟谷神社境内 機神神社 栃木県足利市粟谷町1149
【金井繁之丞命】
 江戸後期の創建。足利織物の祖・金井繁之丞を祀る。この地方は農地少なく養蚕の副業で生活を維持していた。その後、京都西陣より機織技術が導入され、高級織物が生産できるようになった。 織物技術で有名になった金井繁之丞は、仲間と相談して粟谷神社境内に「機神宮」の石祠を建てた。 その後、金井繁之丞は京都西陣より紋織の技法を学び、美術品ともいえる織物技術を完成させ名声を得た。 幕府から東海道の景色を織るように命じられ、繁之丞五十三次を見事に完成された。また、模様玉川・お召ちりまん・小緞子・二丁緞子など数々の織物技術を発明し、産地の発展に貢献した。 金井繁之丞、自ら仲間と創建した「機神宮」は、今は金井繁之丞を祀るものとなった。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
六之丞八幡宮 栃木県足利市板倉町
【堀江六之丞命】
 高木若狭守正恒の領地であった板倉村は、寛保元年(1741)天候不順の為凶作となった。村民は年貢減免を願い出たが、逆に増税される事態となった。 堀江六之丞は農民たちの説得にあたったが聞き入れられず、農民たちは五十部村の代官所へ嘆願した。 ところが、代官所では堀江六之丞を事件の煽動者と決めつけ、捕えて拷問を行って、斬首してしまった。 堀江六之丞の妻・よねは、夫の無罪と代官の横暴を直接江戸の藩主へ訴えようとしたが、江戸で処刑されてしまった。 その後、藩主がことの顛末を知り、代官を処分して、板倉村の年貢を減免した。
 一説には、堀江六之丞は農民たちの総代であったとも、妻・よねは直訴したが認められず帰郷の後に自殺したとも伝えられている。
 その後、村内で不吉な事件が起こったため、堀江六之丞夫婦の祟りであると恐れられ、文化年間(1804〜)羽黒山山頂に「堀江神社」として創建。 通称は「六之丞様」「六之丞八幡」と称されている。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
茨城県
谷神社 茨城県結城市大町新田
【谷君雄命】
 文政十一年(1828)創建。寛政年間、当時の山川領は土地は荒れ風俗は悪く真面目に農業に励む者もなかった。藩主鳥居氏より代官に任じられた藩臣・谷益友は善政を施し、その子谷君雄は用水堀を開き、遠近の人々を招いて田畑を与え、荒地であった村々を裕福な村へと変えた。その後藩命により壬生城へ帰る谷君雄の恩恵を忘れぬため、生前の文政十一年、鎮守の神として生祠に祀られた。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
千葉県
口之宮神社 千葉県佐倉市大佐倉将門
【佐倉宗吾郎命】
 佐倉宗吾郎(佐倉宗吾、佐倉惣五郎)を祀る。江戸時代初期、佐倉藩領主・堀田正信の重税に耐えかねて、名主・佐倉宗吾郎は上野・寛永寺境内にて将軍に直訴。 その結果、無謀な増税は改められたが、直訴の罪によって承応二年(1653)家族もろとも磔にされた。
 佐倉宗吾郎の死後、堀田正信は老中への諌言上書事件によって改易され、佐倉宗吾郎の祟りであると言う伝承が生まれた。
 延享三年(1746)堀田正信の弟の子孫である堀田正亮が、山形から佐倉に転封となったが、この伝承を知り、宝暦二年(1752) 佐倉宗吾郎の百回忌を執り行い将門の霊を祀る将門山に祠を造営した。一説には、堀田正信が佐倉宗吾郎の霊を将門を祀る将門神社に祀ったとも伝えられている。
 明治三年、いかなる理由においてか、祭神として佐倉宗吾郎の霊は廃止され、大山咋命が祭神となった。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
秋葉神社末社 昆陽神社 千葉県千葉市花見川区幕張町4−598−1
【青木昆陽命】
 安政四年(1858)の創建。通称「芋神さま」。青木昆陽は蘭学の研究に励む一方、飢饉や凶作の際、作物が取れない時に非常食として甘藷(さつまいも)栽培の必要を説き、将軍吉宗に上書して認められ、 江戸小石川養生園、下総馬加村(幕張町)、上総豊海(山武郡九十九里)の三か所を試作地として甘藷栽培をはじめ、成功を収めた。 幕張での甘藷栽培は次第に増加し、天明・天保の大飢饉の際にも、この地方の餓死者は皆無であったという。 その後、甘藷栽培は幕府の直轄事業として全国に普及し、現在、我々が口にするサツマイモは、この幕張の地から全国に広まったものであるという。
 弘化三年(1846)時の給地役中台与十郎は、青木昆陽の徳を讃え、社殿造営を計画。安政四年(1858)江戸竜泉寺(目黒祐天寺)より青木昆陽の霊を迎えて創建された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」


最終更新日:2014/11/15
【 郷土を救った人々 −義人を祀る神社− 関東地方編 】

ボーダー




資料
郷土を救った人々
−義人を祀る神社−
神社建築
鳥居
『鳥居の研究』
根岸栄隆著 分類
『鳥居考』
津村勇 分類
本地垂迹
神使
○○の神々
燈籠
路傍の神々
祝詞
神社合祀