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「郷土を救った人々 −義人を祀る神社−」 北陸地方編
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 昭和五十六年、神社新報社より発行された 「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」 という書籍がある。

 帯には、
激流渦まく水中に自ら人柱となって消えていった人々!
十年、十五年と独力山中の絶壁に水路を掘りつづけた人!
農民のため漁民のために、すすんで自らの生命を捧げた人々!
来年の種のためにと、餓死をしてまで籾を残していった人!
それらの人々に対する郷土の信仰は、この日本がつづくかぎり決して消えることがない。

そんな、郷土のため、人々のために犠牲になった人達、尽力した人達を祀る神社が地方にはある。
このページでは、「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」に載っている神社の要約などを中心に列記する。
近くを訪れた際には、一度足を運んでみたいという僕の願望のリストなのだ。

本ページは北陸地方(富山県、石川県、福井県)のリストです


富山県
四方神社 富山県富山市四方一番町1978
【栂野彦八命】
 明治二十八年(1895)伊須流岐比古神社境内に都賀比古社として祀られ、明治四十年、伊須流岐比古神社に合祀され四方神社と称するようになった。
 都賀比古神社祭神・四方建比古神は、文化三年四方町民が、魚の行商を禁じられ困窮の極みにあった時、これを救うため郡奉行・湯原宗兵衛に嘆願して切腹した四方町年寄栂野彦八のことである。 事の顛末を知った富山藩主前田利幹によって郡奉行は交代され、魚の行商は黙認されることとなった。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
石川県
額神社 石川県かほく市高松コ6
【桜井三郎左衛門命】
 天明年間の創建。桜井三郎左衛門は天正十二年(1584)末森合戦に前田利家公軍勢の道案内をつとめた功により、高松の村民の宅地の税を免除される恩恵を得た人物。 また、羽咋郡太田から大海川へ水を引き、加賀・能登の田地四百八十三町に灌漑の利を与えたとも伝えられている。
 高松の村民は、これに感謝し天明年間、桜井家邸内に英之社として創建。嘉永二年(1849)額神社境内に遷座。大正五年額神社に合祀された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
板屋神社 石川県金沢市上辰巳町13−70
【板屋兵四郎命】
 昭和三十五年(1960)の創建。寛永八年(1631)当時、金沢は大火が多く、城の本丸が焼失するということが続いた。藩主前田利常は、犀川から用水を引くことを決定し、すぐれた工事技術者を探し求めた。 その大役を任されたのが小松に住む板屋兵四郎であった。板屋兵四郎は上辰巳の取り入れ口から岩盤に2.7Kmの隧道を掘り、兼六園を経て金沢に至る12Kmの辰巳用水を設計。 寛永九年に工事を着手し、昼夜兼行の突貫工事を進め、わずか一年で完成させた。この工事においては逆サイフォン方式など当時としては画期的な土木技術が用いられていた。
 承応二年(1653)に病で没した板屋兵四郎を偲び辰巳請を組織。昭和三十五年、上辰巳の取り入れ口近くに板屋神社が創建された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
金沢神社境内 板屋神社遥拝所 石川県金沢市兼六町1−3
【板屋兵四郎命】
 上記上辰巳の板屋神社を遥拝する。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
八幡板屋神社 石川県金沢市袋板屋町チ1
【板屋兵四郎命】
 袋板屋町は、辰巳用水工事の基地であり、板屋兵四郎をはじめ多くの工夫が住んでいた。 伝説によると工事技術の秘密保持のため板屋兵四郎ら工事関係者八人が処刑され、その祟りを袋に封じ込めるためここに祀ったという。 また、一説には盲目谷の難工事で人柱となった袋の住民の祟りを恐れたとも伝えられている。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
古宮公園(安久濤の森、親水公園)内 水戸明神社 石川県白山市白山町
【枝権兵衛命・小山良左衛門命】
 明治二年(1869)の創建。加賀国一之宮白山比咩神社の古宮址に、石川平野を潤す七ケ用水の祖、枝権兵衛と小山良左衛門を祀る。
 江戸末期の当地では、手取川からの水の取り入れ口が手取川水位より高かったため、日照りが続くと旱魃にみまわれ農作物の被害が続出していた。 文政年間、十七歳にして村の肝煎となった枝権兵衛は富樫用水を開鑿工事し、江下三十九ヶ村の千八百町を灌漑することを決意。 加賀藩の産物方であった小山良左衛門に農民の窮状を訴え助力を懇願。慶応元年(1865)加賀藩の許可を得て工事に着手し、 五年の歳月をかけて明治二年に完成した。農民らは工事竣成の明治二年六月、枝権兵衛と小山良左衛門の生祠を安久濤の森に祀り感謝した。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
開成社 石川県白山市尾添一里野
【松本源祐命】
 大正十二年の創建。尾添地区は豪雪地帯で、大正の頃まで陸の孤島であった。大正九年四月三十日、大火災によって全戸数の八割を焼失、村は再起不能なまでに疲弊した。 当時、郡長であった松本源祐は、白山登山路を開き、温泉を開発して村の復興を計画し、村民の協力を求めた。 その結果、大正十年には老人でも登れる登山道が完成。白山山麓の源泉から湯を引いて宿舎を建て岩間温泉と名づけた。 さらに尾添に至る白峯県道拡張という難工事を行い、交通も整備した。
村民は感謝して生祠に祀り、開成社とした。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
福井県
世直神社 福井県福井市みのり町1−24
【鈴木主税重栄命】
 天保八年(1837)の創建。天保当時、木田荒地(現みのり町)の人々はアオダと呼ばれる重税に苦しんでいた。 アオダとは旅の途中で重病になった者は無賃で本籍地まで送り届けたり、死亡した時は官の検死の後埋葬し、死亡者の本籍地に照会する制度であり、人々の負担は相当なものであった。  寺社町奉行であった養父・鈴木彦太夫長恒を補佐していた鈴木主税重栄は、この実状を見るに忍びず、養父の名をもってアオダを撤廃。 人々はこれに感謝し、養父・鈴木彦太夫長恒の死後、鈴木主税重栄を生祠に、養父・鈴木彦太夫長恒と共に祀った。 元はみのり町2−20にあったが、神社規模拡張のため、昭和二年に現社地に遷座。旧社地には石祠が残されているという。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
神明神社境内 三社神社 福井県越前市北町45−12
【松平茂昭命・鈴木拾五郎準道命・徳山五太夫明定命】
 明治二年の創建。福井藩主松平茂昭公と、郡奉行鈴木拾五郎準道、用水役人徳山五太夫明定の三霊を祀り三社神社と称されている。
 享保八年(1722)以来、福井藩の真栖村・杉崎村・北村の三ケ村は、天領の横市村・庄村・塚町村の三ケ村と水利争いをしていた。 特に、福井藩主松平茂昭の許可を得て、鈴木拾五郎準道と徳山五太夫明定が行った土呂川用水の拡張工事によって、 福井藩三ケ村は潤って穀物豊穣となったが、天領側の三ケ村は用水が不足する事態となった。 そこで天領側は幕府に申し立て、土呂川用水の流れを変えたため、今度は福井藩側が水不足となった。 農民の窮乏甚だしく、ついに明治二年、百姓加藤喜三郎を先頭に一揆が発生。参加した村民は続々と捕えられた。
 この時、鈴木拾五郎準道と徳山五太夫明定は、村民の行動は私利私欲によるものではなく、用水不足の犠牲者であって、公共に尽くした人達であると助命を嘆願。 松平茂昭もこれを認め、全員が放免された。村民はこれに感謝し、生祠に三人を祀った。
 明治六年日野神社境内に社殿を新築し、大正元年神明神社境内に遷された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
松木神社 福井県三方上中郡若狭町熊川32−23−1
【松木荘左衛門長操命】
 昭和八年(1933)の創建。寛永年間、若狭小浜の前領主京極氏が城の築造の為、大豆の増税を行い、農民たちは困窮していた。 さらに寛永十一年、酒井忠勝が新領主となっても租税は変わらない状態が続いた。 寛永十六年(1639)若狭国内各村の庄屋が、密かに若狭一之宮若狭彦神社境内に集結し、大豆減免の協議をした。 なかなか議論がまとまらない中、十六歳の若さで新道村庄屋となった松木荘左衛門長操は、総代を選んで藩主に訴えることを提案。 庄屋たちはこれに賛同し、松木荘左衛門長操をはじめ二十余名の総代を選出し、国内二百五十二ヶ村庄屋の連署を得て嘆願書を作成。小浜城内郡代官所へ提出した。
 ところがこの嘆願書は受け入れられず、それから九年もの間、何度も嘆願を続けた。慶安元年(1648)の春、役人たちは嘆願が煩わしくなり、松木荘左衛門長操らを捕え牢に入れた。 牢内で嘆願を中止するように迫られた結果、総代たちは次第に士気を失い懐柔された出獄。最後に松木荘左衛門長操のみが残り願いが叶うことを叫び続けた。 遂に松木荘左衛門長操の熱意に打たれた役人は江戸府中の酒井候に処置を仰ぎ、減免の願いが受け入れられた。
 しかしながら松木荘左衛門長操は、強訴の罪状により磔刑となり、承応元年(1652)二十八歳の生涯を終えた。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」


最終更新日:2014/11/15
【 郷土を救った人々 −義人を祀る神社− 北陸地方編 】

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資料
郷土を救った人々
−義人を祀る神社−
神社建築
鳥居
『鳥居の研究』
根岸栄隆著 分類
『鳥居考』
津村勇 分類
本地垂迹
神使
○○の神々
燈籠
路傍の神々
祝詞
神社合祀