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殖田神社
うえたじんじゃ
高知県南国市植田字東野1267
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式内社 土佐國長岡郡 殖田神社 |
南国市。高知自動車道南国I.C.から東へ2km。
31号線(前浜植野線)沿いにあり、南国市の東端。
西から領石川、東から新改川が合流し、国分川となる
肥沃な地域に鎮座する。
道路から、畑の中を北へ真直ぐに参道が延び、松林へつづく。
松林の中の参道には、多くの燈籠が並んでいる。
松林の後方は、山が連なり、高知自動車道が走っている。
創祀年代は不詳。
式内社・殖田神社に比定される古社。
社殿には、「高賀茂大明神」とあり、
祭神は、土佐神社と同じ、高鴨神。
谷泰山は、殖田と大田との近似から、大田田禰古との関係を指摘する。
この土佐の穀倉地帯を支配した賀茂氏の関連社である。
本殿に、山内家の紋である三柏が付いていた。ただし、
山内家によって造営された高知の神社にはたいていついているので、
神紋かどうかは不明。拝殿の瓦には「高」の字が見えるが、
これは「高賀茂大明神」の意味。ひょっとしたらこれが紋かもしれない。
土佐神社が三巴なので、三巴であるかもしれないが未確認。
参道がかなり長く、社叢も茂り、趣のある佇まい。
参道に並ぶ多くの燈籠も、まだ新しい。
境内には屋根付きの土俵もあり、
よく祀られている、立派な神社。
境内左手には多くの境内社があり、本殿左にも一つ。
一之鳥居 | 二之鳥居 | 三之鳥居 |
社叢の参道、多くの燈籠が並んでいる |
境内の鳥居 | 社殿 |
境内 |
本殿 | 拝殿 |
境内 |
境内社 | 境内社 |
勧請年月日や沿革など不明だが、祭神から考え
ると土佐神社と関連があっただろう。続日本紀神護景雲二
年(七六八)十一月十八日條に「土左國土左郡人神依田公名
代等卅一人賜二姓賀茂一」とあり、同年同月二十六日條に
「従五位上賀茂朝臣諸雄、従五位下賀茂朝臣田守、従五位
下賀茂朝臣萱草賜二姓高賀茂朝臣一」と記されており、賀茂
氏の賜姓や、賀茂一族が高賀茂の姓を賜ったことがわかる
が、谷秦山は『土佐國式社考』で大田田禰古命のことにふ
れ、「蓋殖田大田語相近、舊来號二高鴨及賀茂一」といってお
り、殖田・大田・賀茂にそれぞれ関連があるとし、賀茂氏
が高賀茂となり、殖田は味鈻であるので、賀茂氏が殖田に
味鈻高日子根命を奉斎したという。推測の域を出ないが、
勧請由来の確実なことが不明であるので由緒の一説として
傾聴されよう。中世では山田氏や長宗我部氏の支配地で、
『長宗我部地検帳』によれば長宗我部一族の比江山掃部助
親興の給地が多く、土居の注記もみえるので比江山氏の崇
敬をうけたであろう。 式社内では小社で、三代実録貞観八年(八六六)五月二十 二日條に「授二土左國従五位下殖田神従五位上、正六位上 殖田上紳(中略)並従五位下一」とある。殖田上神は谷秦山 が『土佐國式社考』で「按殖田神社後山舊有二若宮社一、社 今亡而址見存、三代實録所謂殖田上神者蓋此歟」といって いるように秦山は、背後の山中の若宮社に比定しているが、 賀茂氏の奉斎したものと考えられるものの、殖田神社との 相関関係は不明である。神社は明治五年の社格制定にあた り、郷社となった。 −『式内社調査報告』− |
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