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田村神社
たむらじんじゃ
香川県高松市一宮町286
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式内社 讃岐國香川郡 田村神社 名神大 |
香川県高松市にある。
高松琴平電鉄一宮駅の近く。
線路の近くに鳥居が立ち、北へ参道が延びる。
参道は一度、道路で分断され、神明鳥居からさらに参道。
神門をくぐると、広い境内がある。
境内の北側には駐車場があり、そちらの大鳥居側の巨木には
当社のシンボルである布袋様が座って、参拝客をを出迎えている。
本社の右手(東側)には、宇都岐神社が鎮座。
その前に、素婆倶羅社(少名毘古那神)が鎮座していたが、
焼失したということで、現在、宇都伎神社の隣りに建設中。
そのため、工事の柵で、社殿周囲が囲まれ、
本殿・奥殿には近づけなかった。
日曜日には、境内で日曜市が開催されるらしく、
当社は、堅苦しさのない、気さくな雰囲気が漂っていたから
お願いすれば、柵を越えても大丈夫だったかもしれない。
社伝によると、元明天皇和銅二年の創建という。
別名、田村定水一宮大明神。通称、一宮さん。
田村というのは、地名に由来するもので、
一宮とは、讃岐国一宮であるところから。
当社、本殿の後方に奥殿という建物が接続され、
その御神座の床下には深淵があるといい、この淵を「定水」という。
この淵に関しては、蛇や龍に関する伝承も残っている。
また、境内西に「花泉」、境内東に「袂井」があり、
当社が、水に関する信仰を起源とするものであることがうかがえる。
現在の主祭神は、倭迹迹日百襲姫命だが、
中世の諸書では、猿田彦大神、あるいは五十狹芹彦命とされ、
近世以降では、神櫛別命、宇治比賣命、田村比賣命、
水佐々良比古命の兄弟田村命など、一定していない。
が、やはり、田村の地の水神と考えるのが自然だろう。
境内には、一宮七福神と称して、宮島社の周囲に七福神像がある。
香川の「さぬき七福神」の中では、当社は布袋尊にあたるらしく、
宇都岐神社の前には、金箔が貼り付けられた布袋様。
ちなみに、さぬき七福神とは、
恵比寿 白鳥神社:東かがわ市、
大黒天 法然寺:高松市、
毘沙門天 香西寺:高松市、
弁財天 国分寺:国分寺町、
寿老人 与田寺:東かがわ市、
福禄寿 滝宮天満宮:綾南町(現綾川町)、
そして、当社の布袋尊。
北側の大鳥居と布袋尊 |
大鳥居奥の布袋尊 | 金箔の布袋尊 |
高松琴平電鉄の線路近くに鳥居があり、北へ参道が約100m。
途中、二つの鳥居をくぐり、神門を抜けると境内。
境内には、車祓のためか、多くの車が停まっており、
ちょっと、撮影しにくい環境だった。
また、素婆倶羅神社再建工事のため、境内東側は、
工事現場になっており、ちょっと困った。
が、地元の方々にとって、それが自然なことなのかもしれない。
とにかく、町中にあるためか、厳かさではなく、
親しみのような空気に満ちた境内だった。
神職の方々の対応も、どこか親しげ。
こういう雰囲気が、神社の一つの要件だと思う。
参道入口 | 参道 |
参道鳥居 | 神門 |
参道 | 五楽殿 |
境内 |
本殿右には、宇都伎社(大地主神 倉稻魂神)。
宇都伎社横に、再建中の素婆倶羅社(少名毘古那神 大年神 塞神 大水上神 菅原神)。
境内東の池には、宮島社(市杵嶋姫命)。
その北に、天満宮(菅原道眞)。
宇都伎社の前には、むすび石に祀られた姫之宮。
本社拝殿 | 本社右に宇都伎社 |
本社本殿と奥殿 | 宇都伎社・本殿 |
宮島社 | 天満宮 |
拝殿前に姫の宮 |
境内には、他にも、小祠や石像が多く祀られている。
恵比須様 | 大黒様 |
布袋神 | 毘沙門天 |
宮島社の弁天 | 粟島社 | 境内社 |
田村神社略記 祭神 倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと),猿田彦大神(さるたひこのおほかみ),天隠山命(あめのかぐやまのみこと),五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)(吉備津彦命(きびつひこのみこと)),天五田根命(あめのいたねのみこと) 以上五柱の神を田村大神と申す 倭迹迹日百襲姫命は人皇第七代孝靈天皇の御皇女にましまし祟神天皇の御代国内疫病に苦しめるを救治し給ひ又武埴安彦(たけはにやすひこ)の謀反を予知して建言し給ひ謀反を未然に防ぐ等数々の勲功あり仍て百襲(襲は勲功の約)の名を負ひ給ふ 後吉備津彦命(きびつひこのみこと)と西海鎮定の命を奉じ讃岐路に下り給ひよく鎮撫の偉功を立て当国農業殖産の開祖神となられた 御陵(はか)は大和国城上郡大市村にありこの御陵を作るのに昼は人が作り夜は神が是を作られたと云はれ広大な御陵で箸(はし)の陵(みささぎ)と言はれてゐる 五十狭芹彦命は姫命の御弟に当らせられ又の名を吉備津彦命とも申す 四道将軍の御一方にして西海を鎮定し給ひ吉備国の祖神となられた 猿田彦大神は皇孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)御降臨の時天(あめ)の八衢(やちまた)に出迎へて御嚮導をなし道途の安全を守護し給ひし神にして此の神の向ふ所は如何なる禍神も恐れて避け奉ったと云はれ方除の神として神威まことに偉大である 天隠山命は高倉下命(たかくらじのみこと)とも申し神武天皇御東征の砌霊剣を奉って偉功を立て給ひ後御子天五田根命(又の名を天村雲命(あめのむらくものみこと))と共に紀伊国より当国に渡らせられ山河を以て国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定められた 皇室武門武将の崇敬 当神社の起源は極めて古く社記によれば元明天皇の和銅二年社殿を創建すとあり往古より田村大社定水(さだみづ)大明神又は一宮大明神とも称し夙に朝野の崇敬浅からず 仁明天皇の嘉祥二年二月従五位下に叙せられ清和天皇の貞観三年二月官社に預り延喜の制名神大社に列し讃岐国の一宮たり以後屡々神階を授けられ建仁元年二月正一位の極位に敍せらる降って明治四年五月十四日に国幣中社に列せられたり 爾来皇室国家事ある毎に勅使を御差遣あらせらる 古くは弘安七年七月後宇多天皇弘安の役の奉賽として「正一位田村大明神」の勅額を寄せられ明治四年十一月、大正四年十一月、昭和三年十一月の大嘗祭には何れも勅使御差遣あり大正十一年十一月摂政宮殿下大演習御統監の為行啓には亀井侍従を御使として御差遣あり大正十四年十二月十日には北白河宮大妃殿下御参拝昭和九年四月五日閑院宮戴仁親王殿下御参拝同年五月二十二日梨本宮守正王殿下御参拝昭和二十五年三月四国行幸、同二十八年十月第八回国民体育大会行幸には夫々幣帛料御下賜等皇室の御崇敬洵に厚い 武門の尊崇も亦厚く貞和二年三月管領細川頼之領主たりし時には社域を拡築して一切経を奉納し長禄四年十二月細川勝元社頭に壁書を掲げしめて神事を厳重に掟てなし降って天正年間仙石生駒二氏相次いで此の地を領するに及び夫々社領を寄進したりついで明暦元年三月松平頼重公国守に任ぜらるゝや社殿を修造して更に社領を寄進なし延宝七年に両部習合を廃し五十石の社領中五石五斗を割いて社僧大宝院に寄せ神仏を分離し江戸時代の初期に於て早くも唯一神道の道を開かれた爾来松平家の祈願所として累代社領を寄進し或は家宝を献ずる等その尊崇明治維新に至るまで変ることなかりき 当神社奥殿の床下に深淵あり厚板を以て之を蔽ひ此の殿内には盛夏といへども凄冷の気が満ちてゐて古くより神秘を伝へ今に窺ひ見る者なしこれ定水大明神の称ある所以にして領内に水旱あれは領主奉行は必ず先ず以て当社に祈願したりと云う −『平成祭データ』− |
今回、下調べをろくにせずに参拝したので、
写真撮影をしていないものが多いのが残念。
以下は、写真なしだ。
花泉(はなのゐ):境内西側、
百襲姫命が御手を洗った泉。
袂井(たもとゐ):境内東側、
百襲姫命が熱病に罹った時、侍女が袂を浸して水を奉った井戸。
休石:神社東方三丁、
百襲姫命、休息の石。
天降:神社南方二十丁、
旧御旅所で、田村大神が示顕された場所。