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伊曾乃神社
いそのじんじゃ
愛媛県西条市中野甲1649
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式内社 伊豫國新居郡 伊曾乃神社 名神大 |
愛媛県西条市にある。
伊予西条駅から南へ3Kmほど。
石鎚山系から瀬戸内へ流れる加茂川が湾曲している場所に鎮座。
境内入口の鳥居の横に駐車場があり、
参道を歩くと社前に大きく枝を延ばした木がある。
その大木の左手に境内社の古茂理神社(木花之佐久夜毘賣命)。
右手に神門がある。
神門をくぐると、正面に社殿。後方に神明造の本殿。
境内にも幾つかの境内社が並んでいた。
参拝は年末の雨の日。
神門と社殿の間の参道の左右に、テントが設置され、
新年の参拝準備が始まっていた。
テントや青シートがあるので、社殿の撮影がむずかしく、
境内の雰囲気を伝える写真は撮れなかったが、
綺麗に整備された清浄な場。
シトシトと降る雨が木々の匂いをいっそう濃くする、そんな境内。
創建年代は不詳。
社伝によると成務天皇28年(158)の創祀。
往古は「磯野宮」とも書かれた神社。
称徳天皇天平神護元年に神封十戸を与えられ、
神護2年に従四位下を授けられた。
清和天皇の貞観8年に正四位下、12年に正四位上、
17年に従三位下、朱雀天皇天慶3年に正二位と神位があがり、
延喜式では名神大社と記された大社。戦前は、国幣中社。
祭神は伊曾乃神だが、
通説では、天照大御神と景行天皇の皇子・武国凝別命を相殿に祀る。
武国凝別命は伊予御村に封ぜられ、御村別の祖となった。
天正の戦乱で社殿一切を灰燼に帰し、
以後は、「不奉窺」「御神名不知」としていたという。
伊曾乃神は女神であるらしい。
石鎚神(男神)が、山頂から投げた石が落下した場所に
居を定めたという伝承があり、
鳥居横に、その「石鎚神社の投石」が置かれているということだが、
参拝時には気づかなかった。残念。
境内入口 | 参道の鳥居 |
境内 |
境内 | 神門 |
拝殿 |
社殿 | 社殿 |
本殿 |
古茂理神社 | 古茂理神社本殿 |
天満宮 | 境外末社遥拝所 | 妙見・厳島・山王社 |
瑞枝神社 | 鎮守神社(又野神社) | 御先神社 |
式内大社 伊曾乃神社畧記
一、神紋…御所車 一、由緒…景行天皇の皇子、武国凝別命国土開発の大任をおび伊予の地に封ぜられると、皇祖天照皇大神を奉斎し庶民を愛撫し皇威を弘められた。命の御子孫は伊予三村別氏としてこの地方にひろがり栄え、天照皇大神に始祖武国凝別命をあわせ祀った。これが当社の創祀である。奈良時代には伊予国第一の大社として皇室の御崇敬もあつく外敵鎮圧、海賊追捕のたび毎に祈請があり、淳仁天皇の天平宝字六年(七六二年)すでに奉幣祈願のことがあり、称徳天皇は天平神護元年神戸十烟を、更に同二年五烟を奉り従四位下に叙せられたこれは、我国における神位奉授のはじめであった。延長五年(九二七年)の延喜式名神大社であり、つづいて永治元年(一一四一年)正一位に極位した。崇徳天皇御祈願と共に勅額を賜る。その後も国司領主等による社地神田の寄進及び社殿の建立等たびたびであった。昭和十五年国幣中社に列格され、昭和五十七年には浩宮様が御親拝された。 一、社殿…昭和十五年御昇格に際し改築され従来の「入りトンボ造り」を近代化した茅葺白桧木の神明造りとなり、昭和四十六年に銅板葺に葺替えた。 一、境内地…一万六千五百坪(社叢には特異な植物が多い。) 一、宝物他…大倉粂馬翁の奉献になる伊曾乃文庫(国学、史書、古文書等約一万冊)並びに国の重要文化財「予州新居系図一巻」、西条祭絵巻、勅額その他。 一、西条駅より約三Km途中迄バスの便がある。瀬戸内バス西条〜今治間東光下車、一Km加茂行バス伊曾乃前下車五百m。 −『平成祭データ』− |