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宇奈爲神社
うないじんじゃ
徳島県那賀郡那賀町木頭字内の瀬1
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徳島県那賀郡那賀町(旧木沢村)にある。
県北部の吉野川市山川町から、県南部の海部町をつなぎ、
徳島県中央部を南北に走る国道193号線の真中あたり、
那賀川沿い、広野発電所の隣に鎮座。
道路の曲り角にある境内は、それほど広くはないが、
多くの社殿が、ずらりと並び、周囲の木々も高く、
すばらしい空間を形成している。
また、社前を流れる那賀川の水が非常に透明で、美しい。
地元では十二社神社と呼ばれており、
社前のバス停も「十二社前」となっている。
十二社神社、十二社権現とは、熊野からの勧請社を意味する。
承暦年間(一〇七七−八〇)、紀伊国から湯浅権守俊明が
当地の領主となり、熊野十二社権現を、宇奈爲神社に勧請し、
その後、十二社権現が主となった神社。
他の説では、文明年中(一四六九−八六)、湯浅権守兼行が
勧請したとあるが、いずれにしろ湯浅権守によるもの。
湯浅権守は藤原の一族で、兼行も藤原兼行という。
そのせいか、神紋は「下り藤」。
上記の理由により、宇奈爲神社と名を戻した今も
神社の中心には熊野権現がある。
拝殿の後ろの本殿は、熊野本宮。
右には熊野新宮。左には熊野那智宮が鎮座している。
本来の宇奈爲神社社殿は、熊野本宮の後方の高い場所にある。
拝殿後方には、熊野三社が並び、
右手には、八社宮・鎮守社・水天宮・轟祠・牛王祠・王子祠、
左手には、阿須賀社が鎮座している。
これら社殿の並びより一段高い後方に、
一社だけ社殿があり、それが宇奈爲神社本殿。
奥宮的扱いとなっているようだ。
各社の祭神は以下の通り。紀伊の熊野社とは少し違う。
熊野本宮 伊邪那美命・木津御子命・稲飯命
熊野新宮 速玉男命・菊理姫命
熊野那智宮 伊邪那岐命・事解之男命
八社宮 田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命
天忍穂耳命・天津彦根命・天穂日命・活津彦根命・熊野櫲樟日命
鎮守社 岩長姫命
水天宮 安徳天皇・建礼門院
轟祠 級長津彦命・級長津姫命
牛王祠 須佐之男命
王子祠 日本武尊
阿須賀社 阿須賀明神
道路脇の入口 |
拝殿 | 拝殿 |
熊野那智宮 | 熊野本宮 | 熊野新宮 |
宇奈爲神社本殿 | 熊野本宮の後方の高い場所 |
八社宮・鎮守社 | 水天宮・轟祠・牛王祠・王子祠 |
阿須賀社 | 扁額 | 境内の社日 |
宇奈爲神社御由緒
御祭神、豊玉彦命。豊玉姫命。玉依姫命。当社は古く延喜の制小社に列し國幣にあず かった名社で現在社地上段に鎮座す。 当社は、天正十年長曽我部元親が阿波國侵攻 の際黒瀧寺と共に燒討に逢い更に嘉永年間再 度の火災によって古記に乏しいが、鎌倉時代 乾元二年山伏不動院惟金撰「那伊勢託宣」「 湯浅家先祖相続次第記」によれば紀州湯浅の 族湯浅壱岐守藤原兼行が熊野十二社権現を本 社地に勧請して十二社権現とよぶように到った。 明治三年稲飯神社と改称し明治五年郷社に 列し明治三十五年旧社名宇奈爲神社に復す。 安産守護、夫婦和合、延命息災、五穀豊穣を祈 念する者が多い。 社宝に乾元二年那伊勢託宣記、乾元二年神 楽鈴、十二社罐子、牛王神符、八咫烏の牛王 宝治及び應永の鰐口二個、宝剣一振あり、 付近に十二社七不思議の御靈顕がある。 例大祭 十月七日 宇奈爲神社々務所 −境内案内− 本社祭神に関して、神名帳考證には海神なりとせり、曰く宇奈爲は海居なり、と、丹波國丹波郡比沼麻奈爲 神社といふあり、神名秘書によれば豊宇賀能賣神を祀るといふ、又饒速日命六世の孫に建宇奈比命といふあ り、此命を祀りしにもあらん、然るは比爲假名は違へども草の體相似たれば紛れしにもあるべしといふ(式 社略考)、創立年代詳ならず、醍醐天皇延喜の制小社に列す(延喜式)、中頃宇奈爲神社十二社大権現と稱したり しが、明治三年十月十五日稲飯神社と改め、五年十月郷社に列す。 社殿は十二の本殿を具備し、境内六百坪(當村共有地)あり、式社略考に曰く「木頭谷奈井瀬邑に十二社権現と 云ふあり、奈井瀬は宇奈井瀬の轉語なり、此の邑の里長の先祖を木頭忌部政重と云ふ、百三代後花園院康正年 中の古帳を傳へたり、當年まで三百五十年餘に及べり、偖又永禄年中三好大状、元禄年中太田文に宇奈瀬殿と 見え、阿波國兵将居城記に宇奈瀬龜之進と出でたるも此家の祖先なるべし、又阿津江といふ所に、神祇峠、祓 川などの地名もあり、又十二社権現行在所に怪き橿あり、神代よりの古木にて、影向の橿なりと云ひ傳へた り、故思ふに、里正の祖其所の領主にて、神職を兼帯せしと見ゆ云々。」 −『明治神社誌料』− |