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應神社
おうじんじゃ
香川県観音寺市大野原町大野原1913  Zenrin Data Com Maps display !!


十六菊

式内社 讃岐國苅田郡 於神社

御祭神
誉田別命

香川県観音寺市にある。
JR予讃線・豊浜駅の北東へ直線で2Kmほど。
高松自動車道大野原I.C.の東1Kmほどの大野原に鎮座。

当社は、小学校の隣りに広い境内を持つ
大野原八幡宮の敷地内に位置するが
八幡宮とは別の独立した神社らしい。

八幡宮の社殿は、椀貸塚と呼ばれる古墳の南に位置し、
当社社殿は、椀貸塚の東に、東向きに鎮座する。

参拝は元旦。つまり、一月一日の朝。
日が昇ってすぐの頃。
年末から岡山周辺をウロウロとしていたのだが、
讃岐の式内社で、未参拝のお宮があったため、
日の出前に倉敷のホテルを出発し、瀬戸大橋を越えた。
大野原八幡宮には、初詣の参拝客が三々五々。
のんびりとしたお正月の風景だ。

創祀年代、由緒に関しては不詳。

社前の案内板によると、
武内宿祢の後裔・紀氏によって尊崇された古社。
古代から、椀貸塚の東腹に鎮座し、
中姫村の産土として崇敬されていたという。

八幡宮が勧請された後は、八幡宮との境界争いが続いたが、
丸亀藩の裁定により、境石を立てて、敷地を明確にし現在に至る。
ただし、当社の祭祀は、
いまでも中姫の人々によって行われているという。

式内社・於神社の論社の一つ。
「於」と当社社号の「応」が似ているということのようだが、
西讃府志に、
「応神祠ハ椀貸穴ノ上ニアリ、一説ニ式内ナル於神社是ナリトイヘリ。」
とあるらしい。
ただし、『式内社調査報告』には、当社に関する記述が無い。

社殿の屋根や内部に菊の紋が付けられていたが、
神紋かどうかは不明。
祭神が八幡系なので、本来は巴紋なのかもしれない。


社殿

社殿左にある、八幡宮との境石

椀貸塚、西から撮影。この裏側に社殿がある。

鎮座地 大野原町大字大野原字椀貸塚一九一三番地
祭神 誉田別命 (應神天皇
由緒
古来椀貸塚の東腹に鎮座し中姫村の産土神と して崇敬せられたり
伝うる所に據れば武内宿祢の裔 紀氏 この地を開拓 して住し紀氏の尊崇厚かりし社と云う
亦 延喜式内 於神社は当社なりと伝えたり
寛永年間 平田氏により郷社八幡神社の鎮座すると ころとなり 当社が飛地なるが故をもって 屡々八幡社と境 界を争いたるが 丸亀藩の裁くところとなり 境石を建 て紛争も絶えたち 而して今猶 当社の祭典維持等 は数町を隔てたる中姫中央部落の人々により之を取 り行われるものなり
尚 当社は昭和二十三年五月一日宗教法人令により 中姫八幡神社に所属するものとなりたる
例祭 十月十八日〜二十日
境内地 四十九坪八合五勺

−社前案内板−



香川県指定文化財 史跡 椀貸塚
椀貸塚は周りに濠をめぐらした(現在は埋めて いる)大円墳で我が国古墳の特色を示すもので ある。羨門は南向きの横穴石室で巨岩(推定三五トン) をもって築いてある。石室の構築からみて、椀貸塚が 最も古く玄室は巨岩を五段に積み重(つめ石を使用) 天井石四枚でおおっている。玄室の高さは三つの古墳 で最も高い、後期古墳と考えられる。
・形状及び規模
円墳横穴古墳 葺石あり、周濠があった
周り 一一〇米 高さ 七米
・石室平面図
・発掘状況玄室内は発掘済、鉄釘、須恵器出土
・所有者大野原八幡神社
・所在地大野原町大字大野原一九一三番地

−大野原八幡宮境内案内−

当社・応神社と境内を接する、
大野原八幡宮の旧社格は、郷社。
寛永二十年、荒廃していた当地を
京都鹿ケ谷の平田正重が開墾し、
当社社殿を建立したという。

椀貸塚、平塚、角塚という三大巨古墳に
接して社殿が建ち、境内も広い。
境内には、多くの境内社や磐座、立石なども散在している。

近世には丸亀藩主京極家の篤く崇敬していたという。

ちなみに、確認した境内社は、
天満宮、八重垣神社、穣田乃磐座、
松木神社、猿田彦神、荒魂神社、五十鈴神社、
金刀比羅宮、八坂神社、天照皇太神宮。
社殿横の巨木に比賣大神社。
他にも祠や石が存在するが、詳細は不明。

大野原八幡宮の神紋は、五七桐紋のようだが、
社殿の幕には、菊紋も染められ、
賽銭箱には「八」の文字紋が付けられていた。


大野原八幡宮境内

鳥居

随神門

社殿

社殿

本殿

穣田乃磐座、古いものではないようだ。

八幡神社
香川県三豊郡大野原町大字大野原字椀貸塚一九一三番地
御祭神 足仲日子命誉田別命息長帯姫命、配祀、平田正重命・平田正澄命
往古を偲ばせる椀貸塚・平塚・角塚の三大巨石墳や条里制遺跡などから古代社会の大野原は燧灘文化圏の中心的存在として発展していたと思われます。ここに、里人は椀貸塚を奥津城として、太子殿と称えて地主神を祀り、崇め奉っていました。西讃府志に「応神祠ハ椀貸穴ノ上ニアリ、一説ニ式内ナル於神社是ナリトイヘリ。」とあることから、九世紀頃には、墳上に鎮座され、応神宮として祀られるなど、その縁起は悠遠の昔に起因していると考えられます。
その後、大野原は、久しく荒廃していましたが、京都鹿ケ谷で大名貸しをしていた平田与一左衛門正重が丸亀藩主山崎甲斐守家治の許可を得て、寛永二十年開墾事業を始めました工事着手に当たり「一夜霊夢に感じ一宮一刹を建立せり。大野原村八幡宮及慈雲寺是なり。」(三豊郡史)とあります。当時の記録から当初は、応神宮と称されていたようです。その後三代平田源助正清は京都石清水八幡宮より、誉田別命を勧請、外二神を祭神として元禄六年大野原正八幡宮として本社、幣殿、拝殿を建立しました。
平田家全盛時代の、十代源治正節織彦の弘化四年に上棟された本殿、幣殿、拝殿の三殿と補修された惣門が現存しており、町の文化財に指定されています。

−『平成祭データ』大野原八幡宮 由緒−



【 応神社 (観音寺市) 】

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