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高知坐神社
たかちにますじんじゃ
高知県宿毛市平田町戸内4233  Zenrin Data Com Maps display !!


丸に高


『神社名鑑』より

式内社 土佐國幡多郡 高知坐神社
旧郷社

御祭神
都味歯八重事代主神
右殿 大国主尊 左殿 素盞嗚尊

四万十川のある四万十市と、高知県西部の宿毛市を結ぶ56号線、
平田の交差点で南下し、500mで東へ、平田川を越えた場所。
遠目にも、こんもりとした神奈備山である高知山に鎮座。
高さは50m程の小さな山だが、周囲は河口の平地で
神を祀るには良い場所だ。

社伝によると、崇神天皇の御代、
波多國造天韓襲命着任の頃の創祀。
式内社・高知坐神社に比定されている古社。

中世以降は、高持者社、高地之大明神などとも称された神社。

社名の「高知」は「たかち」と読むが、
『式内社調査報告』では、川が巡る地として、
地形からの呼称と考えているようだが、
大和国高市郡鎮座の高市御縣坐鴨事代主神社と同神であり、
高市郡には、当郡の名、幡多と同じ、波多神社等もあり、
その関連性が指摘できるのではないだろうか。

土佐神社をはじめ、高知は鴨系氏族と
関連の強い古社が多いのだ。

参拝は正月三日の午後。
三々五々に近隣の氏子の方々が初詣に訪れていた。


高知山の裏は、工業団地になっている。
鳥居をくぐり階段を登ると広い境内。
周囲に木々が茂っており、やや暗め。

本殿は有形文化財だが、保存のため覆屋で囲まれ、
撮影できなかった。
本殿両翼には、幾つかの境内社が祀られている。

拝殿前は、迎春のため門松飾りがあった。


高知山

鳥居

社殿

境内

拝殿

本殿は覆われて撮影できない

境内の神木

本殿左の境内社
聖・皇太子・曽我・天満他

本殿右の境内社
柴折・仁井田・大船・飛龍・覃鳥

由緒史碑文
この社の創祀鎮坐については土佐古代史式内社考証及国造本記高知県 の考古学神社史料により皇紀十代崇神天皇波多国造主天韓襲命の頃と 云はれる今の幡多の守護神として奉祀せると云う神道考古学の研究で は彌生初期当地方の原始水田稲つくり集落の始まる頃であり境内より すでに多くの石器須恵器土師器を枚集しているいづれも大和朝より平 安初代に至る年代を物語る今日姿を失った曾我山古墳の主は波多国造 主とも考証されている当社と深いつながりを有している千九十余年の 前藤原の時平は勅命により延喜式神名帳を選定して土佐の二十一社を 定め幡多三社を選んでいる入野加茂神社下ノ加江伊豆田神社この社を 示している奈良朝后期より国司領主の崇敬厚く社の修復宝物の献奉な ど文献資料示されている宝永三年谷泰山重遠は土佐式内社考を刊行し ている土佐幽考及和名抄光仁天皇宝亀九年に幡多五郷在り枚田郷戸内 村に高知坐大明神有高持の者の社也都味歯八重事代主神は大和国高市 の社又波多神社と同神也と云う幡多地方の最古の社と云う現在の本殿 下には磐坐有土古の神体と云はれている本殿は明治五年十一月江戸中 期の桃山式を残すとして昭和三十年二月県の有形文化財である昭和二 十六七年神社の合併の議有により神社本庁の承認により曽我神社外七 社をこの社の境内神社としている又昭和二十一年より国家神道の中止 宗教法人法の施行により神社法人となり前宮司篠田善吉よい現任宮司 となりているこの神奈備の森が古代を語る国造主の遺跡であることも すでに土佐古代史により考証されている今后国の重要文化財指定を念 ずると共に前宮司の残せし功績を示針として益々神明奉仕に保存管理 を期すものである現在土佐の神道考古学の上から論証されている上古 の社は高知市一宮土佐神社 朝倉神社 南国市朝峯神社が上古の神奈 備森と云はれている昭和三十年初より念願の石文を誌す也、幡多五郷 は現在の入野郷大方町不破郷中村市鯨野郷土佐清水市山田郷今の山奈 を呼んでいる、土佐古代史考古学の研究では波多国造主と都佐国造主 の二つが大和朝十三代成務天皇の頃一つとなると云う小立足尼と呼ん でいる延喜式内社の鎮座せる近くには古代の遺跡古墳を有しているこ とを語るべき也この社の北西方には聖武天皇神亀元年開山と云う三十 九番延光寺在り南東方には治承初年と云う平田太郎俊遠の二重山城跡 有又西方に天文初年開山と云う一条初代房家二代房冬公土佐一条国司 の墓地藤林寺在り又年代未詳の兼松城布本城跡等在り北方に彌生初期 と云う高岡山古墳を有すこの社との深い関係有りと云う土佐国年記事 略古城略史寺院誌歴史年表を参考とするこの社の古式大祭日は旧九月 二十二日とされている、昭和二十年一月内務省より県社の内示有るも 神道指令にて中止される天文初代より宮林藤原の臣幡多郡和田村住の 神主の奉仕により大正初期迄十四代と有しが松平藤佐神職辞任により 大正十年十月より前篠田善吉宮司就任となる旧幡多郡奥屋内村より現 代に至る篠田源八郎藤原朝臣重里の子孫也温故知新の言葉がある古き を尋ねて現代に照せと解する平田郷土に生れ育つ我々は遠い祖先の歩 み行いしことがらを思考し今日あるを静かに省みる時自然の理を神々 の恩頼加護を受けているを痛感するものである昭和四十年五月宮司就 任より神の命示として朝夕に奉仕し古典に則り神道国学本義の理念を 有しつゝ今后共古代史郷土史研究に歩む者である。

−境内石碑−


高知坐神社修復記念碑
神社の創立は土佐古代史考古学神社 史料により皇紀十代崇神天皇波多国 造朝といわれる平安時代初期藤原時 平の勅進した延喜式神名帖にのる土 佐二十一坐幡多三社の一であり国司 領主の崇敬厚くいくたびかの社殿の 造営あり元久初年より天文十三年四 月土佐一条三代房基氏より現本殿明 和五年十一月宿毛領主山内源蔵橘氏 篤の修復により江戸中期二百十余年 を経ている昭和三十年二月十五日県 有形文化財指定を受く明治四十二年 十一月及昭和十二年十一月旧平田村 氏子中前宮司篠田善吉等により修理 せるも年月の老朽白蟻の損害多くし て県市の修理費広く町内氏子有志の 募金により総工費四百八十八万二千 余円により昭和五十二年十月廿三日 本殿幣殿を修復したものである平田 郷土の歴史の森であり幡多地方の古 代を語る古社として永く石碑に誌し 永遠に守り伝えるものである。
 昭和五十三年四月吉日
        宮司 篠田俊昭誌す

−境内石碑−



【 高知坐神社 】

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