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式内社 土佐國長岡郡 殖田神社 御祭神 阿遅鋤高日子根神 |
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勧請年月日や沿革など不明だが、祭神から考え
ると土佐神社と関連があっただろう。続日本紀神護景雲二
年(七六八)十一月十八日條に「土左國土左郡人神依田公名
代等卅一人賜二姓賀茂一」とあり、同年同月二十六日條に
「従五位上賀茂朝臣諸雄、従五位下賀茂朝臣田守、従五位
下賀茂朝臣萱草賜二姓高賀茂朝臣一」と記されており、賀茂
氏の賜姓や、賀茂一族が高賀茂の姓を賜ったことがわかる
が、谷秦山は『土佐國式社考』で大田田禰古命のことにふ
れ、「蓋殖田大田語相近、舊来號二高鴨及賀茂一」といってお
り、殖田・大田・賀茂にそれぞれ関連があるとし、賀茂氏
が高賀茂となり、殖田は味鈻であるので、賀茂氏が殖田に
味鈻高日子根命を奉斎したという。推測の域を出ないが、
勧請由来の確実なことが不明であるので由緒の一説として
傾聴されよう。中世では山田氏や長宗我部氏の支配地で、
『長宗我部地検帳』によれば長宗我部一族の比江山掃部助
親興の給地が多く、土居の注記もみえるので比江山氏の崇
敬をうけたであろう。 式社内では小社で、三代実録貞観八年(八六六)五月二十 二日條に「授二土左國従五位下殖田神従五位上、正六位上 殖田上紳(中略)並従五位下一」とある。殖田上神は谷秦山 が『土佐國式社考』で「按殖田神社後山舊有二若宮社一、社 今亡而址見存、三代實録所謂殖田上神者蓋此歟」といって いるように秦山は、背後の山中の若宮社に比定しているが、 賀茂氏の奉斎したものと考えられるものの、殖田神社との 相関関係は不明である。神社は明治五年の社格制定にあた り、郷社となった。 −『式内社調査報告』− |