HOME [HOME]  >  [神社記憶]  >  [北海道東北地方]  >
メニューを消去する。ページを印刷するために。 印刷用ページ


磐梯神社
ばんだいじんじゃ
[福島旅行] 福島県耶麻郡磐梯町磐梯八幡4614  Zenrin Data Com Maps display !!


五三桐

式内社 陸奥國瑘磨郡 磐掎神社
旧郷社

御祭神
大山祇命 埴山姫命

福島県の磐梯町にある。
猪苗代湖の北西、磐梯山の南西麓。
磐越西線・JR磐梯町駅の北2Kmほどにある
磐梯八幡の並杉地区に鎮座。
史跡慧日寺跡のはずれに境内がある。

7号線にある道の駅ばんだい近くに北へ入る道があり
北上すると平成二十年に復元公開された慧日寺金堂。
金堂の手前で東へ入って行くと、仁王門があるが
その道をずっと東方向へ行くと当社境内の前に到着する。

車を停めて参拝しようとしたら、
「クマ出没注意」の看板があったので
周囲に注意しながら、参拝開始。

境内入口は南向き。鳥居の扁額に「磐梯神社」と書かれ、
鳥居の左手に自然石に「郷社磐梯神社」と刻まれた社号標があり
鳥居の右手にも加工した石の社号標。
その社号標の後方には、磐に注連縄された磐座がある。

鳥居をくぐると広い境内。この境内は、
慧日寺跡の史跡整備事業で平成十二年に移築整備されたもの。
境内の奥(北側)に、その頃新築された社殿がある。

拝殿の右手に守札所・社務所があり渡り廊下で拝殿と繋がっている。
拝殿の扁額には「磐梯大神」。
拝殿の後方には、流造の立派な本殿がある。

参拝は、東日本大震災から三カ月経過した六月。
猪苗代湖ズの『I love you & I need you ふくしま』を聞いて
久しぶりに猪苗代湖を見に来た帰りに参拝。
郡山の近くで車中泊し、日の出直後にやって来たので
慧日寺金堂はまだ開いていなかった。

早朝で曇天だったため、写真はくすんだ色になってしまった。
晴天の明るい日なら、復元された金堂の朱も緑の芝生も、
もっと美しく撮れたかもしれない。

社伝によると、
平城天皇大同二年(八〇七)二月十三日の勧請。
『明治神社誌料』には式内社・磐掎神社であると記されている。

境内の碑文によると、
慧日寺(恵日寺)の守護神として奥宮に祀られたとあるが、
本来は磐梯山山頂に本社があり、当地に遥拝所が作られたのだろう。

『明治神社誌料』によると、
磐梯山は、往古、風土病である熱病が流行して
病脳山と称されていた。
また、山の東南に月輪・更科の二荘があり、
大同元年、一夜にして湖水となり、多くの民が溺死した。

空海が勅を奉じて当地に来られ、
妖蛇を磐梯西麓の烏帽子ケ嶽に鎮め、山の名を磐梯山と改めた。
空海は、三鈷杵を空中に放ち、落ちた場所に一大伽藍を建立し
密教興隆の場としたが、その土地が妖蛇の尾の端にあったため
尾寺と称し、後に大寺と呼ばれるようになったという。

この大寺は、大同二年(八〇七)に
法相宗の僧・徳一によって開かれた慧日寺(恵日寺)のことだと思う。
慧日寺は東北地方では開基の明らかな寺院としては最古のもの。
会津五薬師の一つ、東方薬師として信仰されていたが
天正十七年(一五八九)の磨上合戦で伊達軍によって
金堂以外の全てを焼失。
寛永三年(一六二六)には、その金堂も火災で失われ、
十二年後、その跡地に薬師堂が建立された。

明治初年の廃仏毀釈により、薬師堂は磐梯神社となったが
明治五年(一八七二)六月の火災で焼失。
焼け残った仁王門は移築され、中に御神体が安置された。
大正十二年、慧日寺薬師堂跡に神殿が建立された。

昭和四十五年、慧日寺跡が国の史跡に指定され、
復元整備が計画されたことにより、
磐梯神社は現在地に移転された。

本殿の屋根に桐紋が付けられていたが、当社の神紋かどうかは未確認。

境内社についても未確認。
社殿の周囲に、古くて小さな石祠などが散在していたが
名前や祭神もわからない。一つの石祠には井戸明神と名前があった。


社頭

社号標

鳥居右脇に磐座

境内

拝殿と守札所・社務所

拝殿扁額

本殿

社殿

記念碑 碑文
 我々の心のよりどころである磐梯神社の由来は、磐梯山慧日寺の建立まで遡る。
 そもそも慧日寺は薬師如来を本尊とし、奥宮に磐梯明神を祀る神仏混淆の霊場として栄え、明治の廃仏毀釈政策 によって、明治二年廃寺となった恵日寺薬師堂に磐梯明神を祀って磐梯神社とした。
 しかるに、明治五年六月の火災によって薬師堂及び鐘楼が焼失したため、類焼を免れた仁王門に御神体を納めて 磐梯神社の体裁を整え礼拝を続け明治十九年に郷社に昇格を得ると共に、氏子の間から社殿新築の声が高まり大正 十二年、焼失して空き地となっていた恵日寺薬師堂跡に神殿を建て「御国祭(舟曳祭)」や「大頭小頭稲初穂」 が年中行事として伝承されて来た。
 その後、昭和四十五年に磐梯神社境内地を含む三・六haの土地が史跡慧日寺跡として国指定となり、以後、磐梯 町史跡整備計画に基づく土地公有化事業が進められ、平成五年十二月に町からの磐梯神社移転計画に関する検討依頼に 基づき、当地区では史跡整備検討委員会を設け約三年の歳月を掛けた慎重審議の結果、集落の北東部に位置する 並杉地区に磐梯神社移転を決定する。
 また、建設委員会を設けて旧来から伝承された建築様式や景観に配慮した造成工事の計画を樹立し、平成十二 年五月着工となり、現代技術の粋を傾注し総事業約壱億参千万円の巨費を投じ、ここに完成するに至る。
 この大事業が達成し得たのは、歴代の本寺区役員並びに神社役員、総代や建設委員はもとより地区住民のたゆまぬ 努力、そして国県町をはじめ神社庁等の格別なる御指導御高配の賜であり、ここに深甚なる感謝と敬意を表するも のである。
 今後も蒸民を見守るように鎮座する磐梯神社を中心に、農耕礼儀を通じ朝な夕なに神との親密な関わりと家族の 安穏を願う霊場とならんことを祈念し、この大事業を後世に伝えるため竣功記念碑を建立しこれを銘記する。

−境内石碑−

慧日寺金堂は、平成二十年四月に復元され、一般公開されている。

慧日寺金堂のそばに、仁王門と薬師堂がある。
この薬師堂が、明治になって磐梯神社社殿として使用され、
その後焼失したため、仁王門に御神体を祀っていたらしい。

現在の薬師堂は明治二十二年に再建されたものらしい。

磐梯神社境内の碑文に、磐梯神社は大正十二年に
空き地となっていた恵日寺薬師堂跡に再建されたと記されていたが
その空き地は、明治に再建された薬師堂とは違う場所なのだろうか。

磐梯神社が現在地に移転される以前に、どこにあったかは確認していない。


復元公開されている慧日寺金堂

磐梯神社参道脇の仁王門

仁王門奥に薬師堂

慧日寺金堂の前には、如蔵尼の墓がある。
如蔵尼は、平将門の三女・滝姫。
将門の死後、将門が信仰を寄せていた慧日寺の傍らの
小さな庵でひっそりと暮らしていたが病にて命を落とす。
死後、父の罪業のため地獄へ落ちるが、
地蔵菩薩の加護により蘇ったという。

慧日寺金堂の後方には、慧日寺を開いた徳一の廟があり
中に、徳一の墓と伝えられる平安時代の石塔がある。


薬師堂から慧日寺金堂

慧日寺金堂前に如蔵尼の墓

徳一廟

徳一廟内部の石塔

仁王門から道をはさんだ林の中に不動院龍宝寺不動堂がある。

会津地方の修験道は、慧日寺創建よりも古いと言われ
大伴家が大寺修験の指導者としての役割を担っていたので
磐梯修験は大伴修験とも称されてきた。
不動院龍宝寺は、磐梯修験の一つの祈願所だったらしい。

不動堂の脇に、乗丹坊供養塔。
乗丹坊は慧日寺最盛期の衆徒頭で、
平安時代末期には僧兵数千人を動員する勢力があった。
養和元年(1181)六月、平氏の命を受け、
越後の豪族城氏と共に木曽義仲追討のため、会津四群の兵を率いて出陣。
信州横田川原(現在の長野県篠ノ井付近)の合戦で敗れて討死にした。
彼の死によって会津慧日寺の勢力は衰退していったらしい。


仁王門近くの不動院龍宝寺不動堂

脇に乗丹坊供養塔


最終更新日:2014/07/22
【 磐梯神社 (磐梯町) 】

ボーダー




北海道・東北地方
japanmap
全国 北海道・東北地方 関東地方 甲信越地方 北陸地方 東海地方 関西地方 中国地方 四国地方 九州・沖縄地方
札幌市 中央区
函館市



伊具郡 丸森町
遠田郡 涌谷町
塩竈市
加美郡 加美町
加美郡 色麻町
角田市
刈田郡 蔵王町
気仙沼市
宮城郡 七ケ浜町
宮城郡 利府町
栗原市
黒川郡 大衡村
黒川郡 大和町
黒川郡 富谷町
柴田郡 大河原町
石巻市
仙台市 太白区
多賀城市
大崎市
登米市
東松島市
本吉郡 南三陸町
名取市
亘理郡 亘理町