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黄金山神社
こがねやまじんじゃ
宮城県石巻市鮎川浜金華山5  Zenrin Data Com Maps display !!


五三の桐

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式内社 陸奥國小田郡 黄金山神社
式内社 陸奥國牡鹿郡 大嶋神社
式内社 陸奥國牡鹿郡 計仙麻神社
旧県社

御祭神
金山毘古神 金山毘賣神
天神八百萬神 地神八百萬神

宮城県石巻市にある。
牡鹿半島の沖1Kmほどに浮ぶ金華山に鎮座。
周囲26Km、中央最高点445mの金華山は
恐山・出羽三山と並ぶ、奥州三大霊場の一つで、
島全体が当社の御神域。
金華山へは、鮎川や女川から定期観光船に乗る。

鮎川から20分程度の船旅で、金華山西側にある船着場に到着。
船着場のすぐ近くには神輿御旅所があり、石碑が建っている。

船着場から境内までは20分ほどの登り坂。
送迎バスのようなマイクロバスが走っているようだが、
(確認していないので、よくわからない)
せっかくなので歩いて登る。
参道の坂道は、舗装された綺麗な道。
坂道の始点には、当社の鳥居が建っている。

参拝は、夏休みの朝。
船着場に到着した頃は、小雨が降っていたので
傘を広げて歩くが、風に飛ぶ雨粒が
火照る顔に心地よい。
少し歩くと、赤い欄干の神橋があり、
橋の先には、赤い鳥居。
傍らには「縣社黄金山神社」と刻まれた社号標。
左手には、境内社の濱神社(八重言代主神)。
さらに参道を登って行くと、
御神木(樹齢800年の欅)があり、境内に到着する。


船着場

神輿御旅所

神輿御旅所

参道鳥居

参道から港

参道神橋

鳥居と社号標

鳥居脇に濱神社

参道

参道

金華山全体に鹿や猿が居るようで、
境内でも数頭の鹿が散策していた。
参拝者がエサを与えるのだろう、
近づいても逃げないのは奈良と同じ。


境内図

境内の鳥居をくぐり、階段を登ると
楼門のような随神門。
随神門の奥に、さらに階段が続いており、
階段の左手には祈祷殿がある。

階段を登ると、正面に大きな拝殿。
拝殿の後方、垣の中に本殿があるのだが、
屋根しか見えなかった。

創祀年代は不詳。

社伝によると、金華山は、
神代の昔、大己貴命少彦名命が国作りをしている時、
椿を作ろうと、金石を煉固めて作った山。

天平二十一年、丸子連等が相謀りて
山中より黄金を採取し、時の陸奥守百済敬福によって
黄金が朝廷に献上されたという。
その功績に拠って、丸子連は牡鹿連の姓を賜わったという。

また、大伴家持が産金を祝して、
すめらぎの御代栄えんと東なる みちのく山に黄金花咲く
という長歌を作り、
黄金山と呼ばれるようになり、
後に金花山・金華山と呼ばれるようになったという。

丸子連等が黄金を掘った時、
山頂に国常立命海童神金山毘古命の三柱を
山腹に金山毘売命を祀ったが、
後、本地垂迹により三柱を龍蔵権現、金山毘売命を弁財天と称した。

上記、産金の伝承から、当社を小田郡式内社・黄金山神社とする説がある。
江戸時代までは、当地が産金発祥の地を考えられていたが、
現在では、涌谷町だと考えられており、
式内社・黄金山神社も、涌谷の黄金山神社であるとされている。

また、当社を牡鹿郡式内社・大嶋神社であるとする説や
牡鹿郡式内社・計仙麻神社であるとする説もある。

境内の右手から、山頂(445.2m)へ続く道がある。
雨が降っていたので、山頂へは上らなかったが、
境内から一時間程度で登れるらしい。
山頂部には、当社の奥宮・大海祇神社が祀られている。
大海祇神社の御祭神は、大綿津見神市杵嶋姫神
また、天之御柱神國之御柱神が合祀されている。

山頂へ向かう道のある
境内右手には、幾つかの境内社や石像がある。

まず、境内に入ってすぐの場所、少し高い所には、
五十鈴神社(天照皇大神豊受姫大神)。
五十鈴神社の鳥居の横に「開山上人脱履の跡」。

山頂へ続く道には、
八大龍王神碑と弁財天石像。
大黒・恵比寿尊像(大國主尊事代主尊)。
金椿神社と奥宮・大海祇神社遥拝殿でもある辯財天奉安殿。
金椿神社には以下の多くの神々が祀られているが、
上記伝承のように金山に椿を作ろうとした
大己貴神少彦名神が主祭神。
大己貴神少彦名神大國主神菅原道眞
天宇受賣神月夜見神大年神奧津彦神奧津姫神

境内図を見ると、辯財天奉安殿の先に、
滑石神社(武甕槌神)があるようだが参拝し忘れてしまった。
『平成祭データ』には、上記の他に、
山神社(大山祇神水波廼賣神)、水神社(天水分神國水分神)、
愛宕神社(火産靈神埴安姫神)などの名前も記されているが
参拝時には気付かなかった。
他の参道や山頂への道にあるのかもしれないが、
とにかく未確認。
今回は雨が降っていたことと、時間の余裕が無く、
山頂へは参拝できなかったが、
いつか天気の良い秋の日に、ゆっくりと時間を取って参拝してみたい。


境内と御神木

五十鈴神社

鳥居と随神門と鹿

鳥居と随神門

祈祷殿と参道階段

階段上に社殿

拝殿

本殿

社殿横から

大黒・恵比寿像

八大龍王と弁財天

金椿神社

辯財天奉安殿

黄金山神社の由緒
御祭神 金山毘古神 金山毘売神
今から凡そ千三百年前聖武天皇の御代天平二十一年 (西暦七四九年)にそれまで日本では採れないと考えられていた 黄金が陸奥の国で発見され国主百済王敬福より砂金九百両が 朝廷に献ぜられた。当時東大寺大仏建立にあたり鍍金用黄金の 不足に頭を悩ましていた天皇はこれを大いに喜び、年号を改元 産金者らには昇叙、賜姓、免税がなされ国家的な一大慶事として 祝賀された万葉歌人大伴家持は すめらぎの御代栄えんと東なる みちのく山に黄金花咲くと詠って この記念すべき初産金を祝福し以後みちのく山と呼ばれていた秀麗 な島は金花山又は金華山と呼称されその地に慶祝をこめて金を司る 金山毘古神 金山毘売神を奉祀神社を創建したのが 金華山黄金山神社である中世以降神仏習合時代は大金寺 が中心となり東奥三大霊場の一つとして修験者が活躍 福神 辯財天信仰が広まり繁栄したそして明治二年の神仏分離令後は 黄金山神社に復古現在は黄金発見に因む金運、幸運、 開運、招福の御神徳に福神辯財天の芸術面の御利益も加わり 広く全国から篤く信仰を聚めている

−境内案内板−


黄金山神社
御参拝のしおり
今からおよそ一二四〇年前、聖武天皇の御代、天平二一年に(西暦七四九年)、陸奥の国主百済王敬福が朝廷に黄金を献上した。天皇はおおいに喜ばれ、年号を天平勝宝と改められた。この史実は、我国最初の産金として史上有名なことであり、この史実にちなみ、同二年牡鹿連宮麿たちが相謀り、国主に請願し、秀麗の地金華山に金をつかさどる金山毘古神・金山毘賣神を奉斎し、神社を創建したのが、金華山黄金山神社である。
中古以来、神仏習合時代は辯財天を守護として、仏像を祀り、金華山大金寺と称し、多くの信仰を集め、女人禁制を敷いた。
永万、仁安の頃(一一六五〜一一六八年)は、平泉の陸奥守藤原秀衡が、寺領三千石を寄進、堂塔および四八坊を山内四箇所に建立、荘厳美麗をきわめた。その後さらに奥州総奉行に任ぜられた(文治六年、一一九八年)石巻城主葛西三郎清重が千五百石を寄進し荘厳であった。
しかし、天正の乱の兵火の為に焼失し、文禄二年(一五九三年)下野国岩倉の僧成蔵坊長俊(栃木県日光山の僧正)が大金寺を再興し、代々真言宗にて祭祀を奉じていた。
すなわち、東奥の三大霊場(出羽三山・恐山・金華山)として修験者が次々と来山し、修業を積んだ者は、金華山信仰を各地で広めていった。
後、文化十年再度の火災に遭ったが、仙台藩主伊達家において、一山を除地として管理を大金寺に任ぜられ、さらに寺塔を建立し、伊達家代々の崇敬あり、年毎に隆盛をきたした。
明治二年、神仏分離令により、仏号を除き黄金山神社としたのである。この時十七世康純坊運昌は復飾して、奥海正と改め、神社に奉仕することとなり、女人禁制も解除された。この際、御祭神も復古して、金山毘古神・金山毘賣神の二柱とし、頂上奥の殿(奥の院)大海祇神社の御祭神は大綿津見神市杵島姫神(辯財天)ほか二柱を奉斎した。
明治七年には県社に列せられ、昭和二一年制度の改革により国家管理を離れ、宗教法人を設立し、神社本庁に所属、昭和二七年に別表神社となった。昭和五四年三月に金華山島は国定公園に指定され、現在年間五十万人の参拝者で連日賑いをみせている。

−『平成祭データ』−



【 金華山 黄金山神社 】

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