[HOME]  >  [神社記憶]  >  [北海道東北地方]  >
メニューを消去する。ページを印刷するために。 印刷用ページ


鹿島御児神社
かしまみこじんじゃ
宮城県石巻市日和が丘2−1−10  Zenrin Data Com Maps display !!


三割菊

式内社 陸奥國牡鹿郡 鹿嶋御兒神社
旧県社

鹿島御児神社公式サイトを開く
御祭神
武甕槌命 鹿嶋天足別命

宮城県石巻市にある。
石巻駅の南1Kmほど、
旧北上川の河口部近くにある日和山公園の上に鎮座。

境内までは車道が通じており、
入口前は広い駐車場になっている。
駐車場の南側、石巻港を見下ろす場所に鳥居が建っている。

鳥居から下を見下ろすと、階段参道が続いているので
南麓に、当社参道入口があるのだろうが、
参拝当日は小雨が降っており、下まで降りて確認していない。

社務所と車祓所の間を抜け、
境内入口の鳥居をくぐると広い境内。
正面に朱の社殿が建っている。
入母屋造の本殿は、拝殿の後方、垣の中にある。

小雨の朝だが、鳥居周辺には
朝の散歩をしている方がいたし、
体操をしている方もいた。

当社の社号は、資料には「鹿島御児神社」と記載され
地図にも、その名があるのだが、
拝殿の扁額には「鹿嶋御子神社」と書かれていた。

通称は鹿島大明神。俗称は日和山神社。
元は鹿島台にあったらしく、
葛西家(伊豆守清宗)が日和山に築城の際、
現在地に遷座したという。

伝承によると、往古、
関東の鹿島・香取の両神宮祖神の御裔神が
海路奥州へ下向して東夷征伐し、開拓を経営した。
その際、石巻の沿岸に停泊し、
錨を操作した際、石を巻上げたことから、
石巻という地名となったという。

つまり、当社祭神は、石巻開拓の祖であるという。

三代実録には、
鹿島大神の裔神八社が陸奥国にあると書かれているが、
当社は、その一つ。
式内社・鹿嶋御兒神社に比定されている古社である。

陸奥国式内社の中で、鹿嶋・香取と関連する社名は以下の通り。
黒川郡・鹿嶋天足別神社
曰理郡・鹿嶋伊都乃比氣神社
曰理郡・鹿嶋緒名太神社
曰理郡・鹿嶋天足和氣神社
牡鹿郡・香取伊豆乃御子神社
牡鹿郡・鹿嶋御兒神社(当社)
行方郡・鹿嶋御子神社
栗原郡・香取御兒神社

また、鹿嶋神社という式内社も、
信夫郡、磐城郡にそれぞれ記されている。

社殿の扉や賽銭箱には、三割菊の紋が付けられていた。

境内の左手に境内社が幾つか。
東向きに、小さな祠が一つと大きな祠が二つ、小さな石祠。
大きな祠は、愛宕神社と稲荷・八幡の合祀社殿。

拝殿の左には、南向きに天満宮がある。


参道鳥居

鳥居

鳥居から参道

鳥居から石巻港

境内入口は駐車場

境内入口の鳥居

境内

天満宮と拝殿

境内社
不明の小祠、愛宕神社、稲荷・八幡宮


本殿

鹿島御児神社由緒略記
当社は、延喜式神名帳所載の式内社で、国史現存社として最も由緒深い神社であります。
当神社創建の由来・縁起について、これを明らかにする史料がありませんが、従前の調査、および史跡・口碑・伝説・社蔵文書の調べによりますと、往古、関東の鹿島、香取の両神宮祖神の御子が共に命を受けて海路奥州へ下向し、東夷の征伐と辺土開拓の経営にあたることとなり、その乗船がたまたま石巻の沿岸に到着、停泊して錨を操作した際、、石を巻上げたことから、石巻という地名の発祥をみたのだとの言い伝えがあります。石巻に上陸された両御子は先住蛮賊地帯であった奥州における最初の足跡をしるした大和民族の大先達であり、開拓の先駆者として偉大な功績を残された地方開発の祖神であります。
当社は代々、使臣、藩主等の尊崇厚く、社領を寄進し、幣物を贈り、また社殿を修築し、宝物の寄進等あり。
明治七年、旧村社に列す。大正十年、旧郷社に列格。昭和十年、県社に列格。
当社は勝利の神として職業繁栄を守り、悪疫除けの神、安産の神、鬼門除けの神、海上安全の守護神として、また交通安全祈願の霊験著しく、その信仰ますます盛んであります。

−『平成祭データ』−



【 鹿島御児神社 (石巻市) 】

ボーダー




北海道・東北地方
japanmap
全国 北海道・東北地方 関東地方 甲信越地方 北陸地方 東海地方 関西地方 中国地方 四国地方 九州・沖縄地方
北海道
札幌市 中央区
函館市

青森県

岩手県

宮城県
伊具郡 丸森町
遠田郡 涌谷町
塩竈市
加美郡 加美町
加美郡 色麻町
角田市
刈田郡 蔵王町
気仙沼市
宮城郡 七ケ浜町
宮城郡 利府町
栗原市
黒川郡 大衡村
黒川郡 大和町
黒川郡 富谷町
柴田郡 大河原町
石巻市
仙台市 太白区
多賀城市
大崎市
登米市
東松島市
本吉郡 南三陸町
名取市
亘理郡 亘理町

福島県

秋田県

山形県