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熊野大社
くまのたいしゃ
[山形旅行] 山形県南陽市宮内3476−1  Zenrin Data Com Maps display !!


十四弁菊花心に
三つ巴

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旧県社

御祭神
熊野夫須美大神 (伊弉冉尊)
熊野速玉大神 (伊弉諾尊)
熊野家津御子大神 (素盞嗚尊)

山形県南陽市にある。
山形新幹線赤湯駅から山形鉄道フラワー長井線に乗り換え、
2駅目の宮内で下車。山形鉄道は便数が少ないのだ。
駅を出て、まっすぐ北上し信号を右折、次の信号を左折すると
北へ続く参道に、大きな石鳥居が立つ。

除雪されて白い絨毯のような300mほどの参道を歩くと
正面に、鎌倉権五郎景政御手植えの大きな銀杏の木。
参拝は冬の日だったので葉は全て落ちていたが、
秋なら、むせかえるような黄色の大木のはず。残念。

大銀杏の右手が双松公園。左手に境内入口の階段。
階段を登ると広い境内に社殿がある。
萱葺の拝殿は、どこか出羽神社に似た感じ。
拝殿の後方に幣殿らしき建物が附属し、
その後方に離れて、垣に囲まれた社殿。
本殿を中央に、右に二宮神社、左に三宮神社。
二宮は別名・若王子、三宮には那智宮の名が付いていた。

本殿裏に三羽の兎が彫られており、
全部見つけると、金に困らない生活が送れるらしい。

創祀年代は不詳。
社伝によると、平城天皇の大同元年(806)に、
紀州熊野から勧請して、再興とある。

後、天台宗・真言宗・羽黒修験・神道の四派も加わり、
往時は、三十三宿坊もあって、證誠寺とも称し、
熊野修験の一大霊場として栄えた。

当社は、日本三熊野の一つ。
後の二つは、紀州熊野三山(本宮新宮那智)と、軽井沢碓氷峠の熊野皇大神社
島根の熊野大社が含まれていないのは、紀州系の三熊野だからか。

当社の太々神楽は、伊勢神宮の直伝。
当社に伝授されて以降、他への伝授は禁じられたものという。


参道と一の鳥居

参道の大イチョウ

境内入口

境内

拝殿

拝殿

三宮

本殿

二宮(若王子新宮)

境内入口、階段下右に土社神社がある。
本殿右の二宮神社と同じ室町末期の建造物で、
境内で最古のものらしい。

境内には二十七柱の神を祀っているということだが、
数えてみたらもっと多いような気がする。
確認した境内社は以下の通り。

大銀杏の根元に、道祖神。

参道階段脇に、合殿土社神社鹿島神社、
幸神社、山神、青麻神社、大宮子易神社、
大社神社、湯殿山神社、月山神社。

拝殿左から、
不明の祠、八幡神社、愛宕神社、保呂羽神社、羽黒神社、菅原神社、
稲荷神社、不明の三石祠。
確認していないが、境内見取図では、菅原神社の隣に、融通神社。

社殿右に、
皇大神社、厳島神社、白山神社、義家神社、景政神社、
和光神社、招魂殿。

平成祭データには摂末社に以下のものが記されている。
三輪神社、雷神社、水神社。


大イチョウ根元の道祖神

土社神社(合殿土社神社鹿島神社)

幸神社

大宮子易社、青麻社、山神

八幡社

神庫と遥拝殿

菅原神社

愛宕社、保呂羽社、羽黒社

皇太神社

稲荷社

和光社

大社社

厳島社、白山社、義家社、景政社

月山社、湯殿山社

招魂社

その他の石祠、雪の中

熊野神社 (熊野大社)
南陽市宮内三七〇七の七 長井線宮内駅一粁
祭神 伊弉冉命 例祭 七月二五日 神紋 一四菊花芯左三巴
建物 本殿春日造六坪・拝殿七七坪・社殿一八三坪・社務所一六八坪・證誠殿四五二坪
境内 五四〇〇坪 末社 二四社
社宝 二宮神社(重美)弥陀等仏像計六七〇点(県文・市文)末社三社(県文・市文)銀杏大木(県記念物)
氏子 二三七〇戸 崇敬者 二〇万人
神事と芸能 延年舞(県無文)
由緒沿革 創立は古く国分寺創建の頃と推定され 大同元年に再興。盛時には宿坊も三三坊を数 えたという。源義家は戦勝を感謝して康平六 年紀州熊野神社の分霊を再勧請し日本第一大 霊験権現と尊称した。修験者の霊場としても 名高く武門の崇敬も厚かった。大江、長井、 伊達、上杉と歴代領主も深く信仰し前後六度 に及び社殿が造営され社領も寄進された。し かししだいに衰微し維新を迎えたときは七坊 一神主六社人を残すだけであった。大正六年 県社に列した。新年の初詣と秋の菊祭りには 参詣者が多く臨時列車が仕立てられる。(神社本庁別表神仕)

−『全国神社名鑑』−


熊野大社参拝のしおり
創立
現存する古文書において、当社に関し最も古い年号が見える記事には、大同元年(八〇六)平城天皇の勅命により、紀州熊野権現の御神霊をお遷し申し上げ、再興したとあります。この記事から推して、当地には、大同元年には既に神社が祀られてあったものを、この年に更に興隆をはかったものと考えられます。
御祭神
紀州熊野三山は、本宮・那智・速玉の三社であり、各々の主祭神は、家津御子大神素盞鳴尊熊野夫須美大神伊弉册尊)・熊野速玉大神伊弉諾尊)であられ、全国の熊野神社は、この三神を主にお祀り申し上げ、更に他の神様をもお祀り申し上げたり致しております。当社では、那智系の熊野神社の例しにより、先ず伊弉册尊を、次に伊弉諾尊・素盞鳴尊を奉斎申し上げ、更に多くの神様を熊野山中にお祀り申し上げております。
御神徳
伊弉册尊・伊弉諾尊は、私共が住んでいるこの中津国がまだ固まっていない頃に、高天原から天降られまして、この国土を固成され、又、八百万の神々をお生みになられ、この世界のすべての営みの礎をお築きになられました。又、その時初めて夫婦の道もお定めになられました。こうした故事により、縁結び・産業全般の神として、信仰されております。
由緒
大同元年(八〇六)平城天皇が、当時開拓中で、朝廷の統治が充分でなかったこの地方に、中央の崇敬篤い熊野権現を勧請し、開拓民の幸せを祈願なさったのをはじめ、たびたび再興されました。清和天皇の命により東北の地を広く行脚し、各地にその足跡を残した慈覚大師も、貞観六年(八六四)この地を訪れ、御本尊として、弥陀・薬師・観音の三像と大黒像を納められたと伝えられています。その他にも、国難に際しては勅命により、全国各地の著名な社寺において国難退散の祈祷が行なわれました。当社もその例に漏れず、文永十一年(一二七四)十月、蒙古軍が壱岐・対馬を侵し、筑前に上陸した--弘安四年(一二八一)五月、高麗の兵船が対馬に襲来。六月には元の本隊と高麗軍が合流して志賀島・長門を襲った元寇などにおいて、亀山上皇の上使が訪れました。そのときの御篭りの場所は鏡池として残っております。日本に仏教が伝わって来ると、仏教は、それまでの固有の宗教――神道と結びつき、その後は長い間神仏混淆の時代が続きました。こうした中で、熊野信仰はいちはやく仏教と結びつき、混然一体とした形態が長く続きました。紀州熊野は、自ら証誠寺と称し、全国各地に熊野神社が祀られるようになると、そのうちの約七ケ所ぐらいの大社に、証誠寺の称号を許しました。当社はこの証誠寺の称号を許され、これを学頭坊に、数拾の坊を率いる密教系の一山寺院の形態を呈していました。頭初は、他寺他山の支配をうけることなく、独立無本寺の別山でした。江戸時代以降、本山や本寺をもつようになりましたが、天台・真言・大津神主・山伏――修験等、一山中に代表的な宗教が網羅されているという非常に複雑な構成となっていました。明治初年の太政官布告により、神仏分離が行なわれ、熊野神社として現在に至っております。
日本三熊野
中世において、全国に広がった熊野信仰は「伊勢へ七度、熊野へ三度」とうたわれ、「蟻の熊野詣」の諺を生じたほどで、各地に大小の熊野神社が祀られました。こうした中で、特に著名な三社を、日本三熊野と申します。この三社とは、紀州の熊野三山の他に、上州と信州の国境、現在の群馬と長野の県境である碓氷峠に鎮座します熊野神社、更に、当宮内の熊野神社を数えます。
八咫烏
古事記によりますと、神武天皇御東征のとき、紀伊熊野より大和の国にお入りなさるときに、先ず八咫烏を遣わされ、これに従って進まれ、吉野河の河尻に到られたとあります。こうした故事により、紀州の熊野三山では、神璽に八咫烏を描き、その宝印は、厄除等の神符として信仰を集め、牛王宝印の名と共に、広く知られています。
県天然記念物
大銀杏
永承六年(一〇五一)陸奥国六郡を領有した安倍頼時が、国司の命にそむき、奥州は戦火につつまれました。この前九年の役の際、父である陸奥守源頼義をたすけた源義家は、当社に必勝の誓願をし、その霊現により役を平定することができました。永保三年(一〇八三)つづいておこった後三年の役においても、国司の義家は、寛治元年(一〇八七)鎌倉権五郎景政を使いとして必勝を祈願し、その際手植えされたものと伝えられています。

−『平成祭データ』−



最終更新日:2013/10/09
【 熊野大社 (山形) 】

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