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式内社 紀伊國牟婁郡 熊野早玉神社 大 旧官幣大社 境内社手力男神社 式内社 紀伊國牟婁郡 天手力男神社 熊野速玉大社公式サイトを開く 御祭神
式内社調査報告では、以下の記述。
神道大系では、以下の記述。
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熊野三山の一つ。熊野川の河口から3Km、
42号線沿いにある、朱と緑の神社。
「新宮」の名は、神社側では神倉山旧宮に対する新宮であるとする。
が、どう見ても本宮に対する新宮にしか見えない。
降臨地から遷座したものが新宮なら、古社のほとんどが新宮だ。
競争心の表れか。ただし、延喜式を含む古資料には、
ほとんど、速玉社の方が先に記されている。
社務所で「七五桐紋」と聞いた。理由はわからない。
那智大社横の青岸渡寺の寺紋は「七五桐紋」だった。
関係あるのか。和歌山には桐紋の神社が多かった。
「熊野神邑」。平安初期まで新宮の速玉大神と那智の結大神は
二社一所に祀られ、神倉山麓を「神邑」と呼ばれた。
それに対し、那智は「仏邑」であった。
昔、猟師の千代包(ちよかね)が獣を追って道に迷っていた時、
八咫烏が現れた。ついていくと八咫烏は金色に代わる。
さらについていくと、烏は消えうせ、空に光る物体。
矢で狙いをつけ、「何物?」と問うた。
それが熊野権現であり、千代包は開祖となった。
拝殿の奥に第一本社、第二本社がある。
瑞垣内には、この他、奥御前三神殿・上三殿・八所殿。
境内には、新宮神社・熊野エビス神社がある。
熊野十二所権現だが、案内板では十六まで記されていた。
| 鑰宮天之手力男命 式内社 天手力男神社 | 鑰宮と八咫烏神社 | 八咫烏神社 建角見命 |
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熊野速玉大社の御由緒 熊野大権現・全国に祀る数千社の熊野神社の総本宮である当大社は現世安穏(家内安全、交通安全、願望成就 業務繁栄・病気平癒)の御神徳が高く熊野信仰の根源と仰がれている。大正四年十一月十日官幣大社に列格、 神代の頃、神倉山(権現山東南端)に御主神の熊野速玉大神(伊弉諾尊)・熊野夫須美 大神(伊弉冉尊)が降臨、景行天皇の五十八年春三月(紀元七八八年)に現在の境内へ速玉宮・結宮の 二神殿を建てて神倉山から御遷宮、奈良朝末期頃から神佛習合説・修験道によって熊野信仰が全国へ 飛躍的に流布するに及び中世熊野御幸は百四十度、各地よりの参拝は「蟻の熊野詣」と諺が生じる ほどに盛行を極め次々と諸神を追祀して壮大な熊野十二所権現の御社頭になった。 昭和二十六年から氏子、崇敬者の御協力の下に当度御造営工事を施工、御本殿以下諸建物を改築して 明治十六年炎上以来約百年を経て壮麗な鎌倉時代の尊容が再現せられた。 −境内案内より− |
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