あなせにますひょうず
奈良県桜井市穴師

式内社 大和國城上郡 穴師坐兵主神社 名神大 月次相嘗新嘗
式内社 大和國城上郡 卷向坐若御魂神社 名神大 月次相嘗新嘗
式内社 大和國城上郡 穴師大兵主神社
旧県社

中央 兵主神
右殿 若御魂
左殿 大兵主神

祭神に関して諸説ある。
「兵主神」、和漢三才図会では、鏡が御神体であると言い、
神社案内では、御食津(みけつ)大神であるといい、神社辞典では、中国の武神・蚩尤としている。
鏡が祀られていることは確かだと思うが、よくわからない。

『史記封禅書』の八神とは、天主、地主、兵主、陽主、陰主、月主、日主、四時主。
で、兵主は蚩尤である。黄帝と戦った軍神。兵器の創始者。
山東省武梁祠画像石山東省沂南古墓墓室前室北壁上横額画像

若御魂神」、社伝では祭神は稲田姫命とあり、御神体は勾玉と鈴。
それでは、「若御魂」というのは変だ。

大兵主神」、社伝では、御神体は剣(ホコ)で、相撲の祖神らしい。

この三神が直系の武神であれば、素盞嗚(大兵主)−大物主(兵主)−大国主(若御魂)が面白い。

神紋は「橘」であり、宮司も田道間守(はじめて橘を持ちかえった)との関係を話されていた。
また、大兵主の矛との連想と、穴師という鉄生産の地との関係から、
大兵主(あるいは兵主)を天日矛とする説もある。
さらに、若御魂=稚産霊とする説。兵主=御食津とする説を考慮すると、
大兵主=天日矛=豊受というのはどうだろう。豊受(大兵主)−御食津(兵主)−稚産霊(若御魂)。
天日矛と豊受は、同じ丹波・丹後地方に伝説が多く。天日矛を祀る出石神社は豊岡市に近い。
豊受は、陸奥国風土記では、豊岡姫と呼ばれる。

とにかく、興味のつきない祭神。

山辺の道、穴師にある。自転車で来たが、結構きつかった。
手前には、相撲神社がある。


大兵主神社縁起

 大和平野の開拓は、その周囲山麓地帯からはじまったと考えられ、当社のすぐ西には垂仁、景行両天皇皇居跡があり、また少し西北には祟神、景行両天皇陵もある。さらに、日本最古の道路である「山の辺の道」は南方三輪海柘榴市からはじまって、その諸陵や皇居跡を通り、天理市を経て奈良市に通じている。またこの大和古道に、山間部から下りてくる道の交る地点らは古い市の発達がみられ、当社のすぐ西方も、いわゆる古の「大市」のあったところと考えられる。したがって、当社附近が、上代大和文化の一中心地域であったのはもちろん、最も早くひらけたところであって、こゝに大和一国の農耕信仰が集り、また、国土安穏の平和信仰が集るのは当然であった。とくに昔「福瀬路は畏き道」として、福瀬谷が大和から東国への一般通路とならなかった前、纏向川に添い、弓月嶽の麓を通って、大和高原の上に出て伊賀、伊勢に行く道は、大和と東国を結ぶ重要な交通路であった。これが重要であるだけに、同時にその大和平野への出口は、また東国の勢力から大和を渡る要点でもあった。これが当社がこの地に早く設けられ、国土繁栄(農耕乞雨信仰)、平和安全(鎮武信仰)の神として重要な国家の祭祀を受けるものであった。いわば、南隣の三輪山に鎮る大物主神が、出雲系の三輪族の祖神として、国土開拓神の信仰を集めたのに対応し、当社は、生産と平和の神としての国家的信仰によって始った神社であるといえる。有名な野見宿彌の角力の説話が当社にあるのも、それが天皇の国土統治の象徴として行われた呪術であるとされるように、当地は、古代大和、ひいては日本の一中心であったのである。

−『平成祭データ』−