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四條畷神社
しじょうなわてじんじゃ
大阪府四條畷市南野2−18−1  Zenrin Data Com Maps display !!


菊水

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旧別格官幣社

御祭神
楠木正行(小楠公)
配祀
楠木正時 楠木正家 楠木正家子息
和田賢秀 和田正朝 和田紀六左衞門 和田紀六左衞門子息 和田紀六左衞門子息
大塚惟久 畠山與三職俊 畠山六郎 野田四郎 野田四郎子息 野田四郎子息
金岸(某) 金岸(某)弟 關住良圓 關住良圓子息 三輪西阿 三輪西阿子息
河邊石掬丸 誉田(某) 阿間了願 青屋刑部

大阪府四條畷市にある。
JR四条畷駅から東へ約1Km、飯盛山の西麓に鎮座。

四条畷駅の北側に東西に走る参道があり、
東の突き当たりに当社境内。
西の突き当たりには、当社祭神である楠木正行公御墓所がある。

この長い参道を歩くと、途中の交差点に鳥居。
広い車道ではないが、交通量の多い参道だ。
鳥居をくぐり、しばらく歩くと参道は緩やかの上りとなる。
突き当たりに境内入口の鳥居があり、そこから階段を登る。
階段の上、左手に垣の中に境内。
ということで、社殿は南向き。
西向きならば、御墓所と向き合う形で、様子が良いと思うのだが、
どうして南向きなのだろう。ちょっと不思議な感じだ。

垣の外側、参道の右手に楠天神社。
(祭神・菅原道眞 配祀 日吉大明神 嚴嶋大神)

境内正面に拝殿があり、拝殿の左手には、
当社祭神・楠木正行公の母・久子を祀った御妣(みおや)神社がある。

当社祭神・楠木正行公は、
湊川神社に祀られている楠木正成公の嫡男。
父・楠木正成公を大楠公とよび、正行公は小楠公。
ゆえに、当社の通称は、「小楠公さん」。

小楠公は、大阪府千早赤坂村に生まれ、
南北朝時代、父と共に足利勢と戦い、
大楠公は湊川の戦において殉職。

大楠公は湊川への出陣において、死を覚悟し、
桜井宿において、当時11歳だった小楠公に、
「父の教えを守って正統の天皇に仕える様」訓され、
別れを告げた。『桜井の別れ』

その後、南朝の武将となった小楠公は、
度々敵を打ち破ったが、
瓜生野の戦では、敗走する多数の敵兵が
渡辺橋(現天満橋附近)から落ちて
酷寒の中溺れるのを助け挙げ、傷の手当てをし、
衣食を与えて京都に帰したという。

四條畷の決戦に際し、
小楠公は、吉野の如意輪堂に行き、
一族143名の名を留め鏃を用いて板壁に
辞世の句を記したという。
「帰らじと かねて思えば梓弓 無き数に入る名をぞ留むる」

四條畷の決戦において討死にされ、
遺体は、現四条畷駅西側に小碑を建て、
両脇に楠の若木を植えて墓とした。

明治23年、建武中興に尽力した功績により、
別格官幣社として四條畷神社が創設された。
建武中興十五社の一社。

10月だけど、なぜか蒸し暑い、
休日の雨の午後の参拝。
華美さの無い境内には雨が似合う、と思った。


参道中ほどの鳥居

約1Kmの参道

境内入口の鳥居

参道の階段

境内

鳥居

参道右手の天神社

社殿

御妣神社

拝殿

御妣神社本殿

本殿

境内の木、根元に祭神慰霊塔

当社境内から西へ約1Km、参道突き当たりに、
小楠公御墓所がある。
駅から続く道は商店街で、人通りが多いが、
御墓所の中は、とてもひっそりとして、
すぐ側にあるはずの喧騒は消える。
垣の中に、大きな墓碑が建ち、
周囲には、小楠公の墓を作った時に植えた若木が、
御墓所を覆い尽すほどに大きく枝を広げている。


楠木正行公御墓所

境内の大きな木

墓碑

四條畷神社略記
四條畷の地は正平三年(西暦一三四八年)一月五日、正行卿が忠烈無双の御宗族将士と共に誠忠、純孝、正義のため殉節せられた由縁の地である。その殉節の地域は同町字刈屋にあり、畏くも明治九年には従三位を追贈せられ、翌明治十年、境域を拡めて一大碑石を建てられた。同年二月、明治天皇大和行幸にあたり、同十七日、勅使を差遣わせられて卿の精忠を追感あらせられ、特に金幣を賜う。是れより先、慶応四年、同地の平田神社神主三牧文吾等は、殉節の地に神社創建を度々願い出で、その後有志達もしばしば懇請し、明治二十年六月、時の大阪府知事西村捨三より神社創立並に社号と、有志の創立願出あり、同年六月二十九日、願出の旨聴届けられて、同年十二月十六日には明治天皇より神社創立の勅許を仰ぎ、四條畷神社の社号宣下を賜い、別格官幣社に列格せられて、翌二十三年四月五日、御鎮座せられた。
御妣(みおや)神社
御祭神は正行卿の御母公にて、我が国母性の亀鑑と仰ぎ奉る。大正十三年四月十六日、四條畷神社外有志者によって、摂社として奉祀することを申請。同年六月十一日、御創立の儀聴届けられ、同十四年十月五日、御鎮祭を執行する。
小楠公御墓所
四條畷神社表参道を西へ約八百米の処にあり、正平三年一月五日、正行卿が御弟正時卿をはじめ宗族将士と共に殉節されたところである。村人は卿をお慕いし密かに御骸を葬り奉り、足利氏を憚り南無権現とのみ刻んだ小碑を建てその両脇に若き樟樹を植えたが、年を経て合樹一株となり碑はその中に包まれてしまった。後天正十二年、更に碑を建立、正面に南無権現とあり左側の文字は消磨して不詳であるが現存している。大樟樹の右側に明治十年、内務卿大久保利通公の筆による大墓碑が見える。
楠天神社
当社は文教の守護神菅原道真公をお祀りしている。明治維新の方向を決する原動力となった真木和泉守は、歴史を単なる知識とせず、道義を明確する鏡として、常に菅公、楠公を崇敬し、君を思い慕う純情を菅公によって養われ、一身一家を棄てて皇位を護持する情熱を、楠公によって鍛えられ、この思想が遂に維新の主流となって、明治の聖業が完成されたのである。

−『平成祭データ』−



【 四條畷神社 四条畷神社 】

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