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城南宮
じょうなんぐう
[京都旅行] 京都市伏見区中島鳥羽離宮町7  Zenrin Data Com Maps display !!
伝へ来る 秋の山辺の しめのうちに 祈るかひある 天の下かな

日月星

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旧府社

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御祭神
国常立尊 八千矛神 息長帯日売命
配祀
天忍穗耳尊 彦火瓊瓊杵尊 天照大御神
品陀和氣尊 別雷神 大山咋神
久度神 宇氣毛智神 天兒屋命

境内社 式内社
山城國紀伊郡 眞幡寸神社二座
真幡寸神社 眞幡寸大神 品陀和氣尊

京都府の京都市伏見区にある。
近鉄京都線・竹田駅から1.5Kmほどの中島鳥羽離宮町に鎮座。
竹田駅から南へ500m進み、新城南宮道を西へ1Km弱。
阪神高速を越え、白河天皇陵を横目に見て進み、
京阪国道の手前。京都南I.C.の南に境内がある。

境内入口は東西にあり、
車は京阪国道に面した西側入口から。
僕は徒歩だったので、東側入口から入った。

参道を西に進むと、眞幡寸大神を祀る摂社・真幡木神社。
さらに進むと、唐渡天満宮とも称され、菅原道眞を祀る芹川神社。
それぞれ参道に面して南向きに鎮座。

さらに進むと、東南向きに境内入口の朱の鳥居が立っている。
東西の参道入口にある鳥居の扁額には「城南離宮」とあるが、
この鳥居の横には「城南宮」と刻まれた社号標。
鳥居の向かいには、天照大神を祀る三照宮社が北向きに鎮座。

鳥居をくぐり境内に入ると、境内中央に舞殿のような拝殿。
拝殿の奥に社殿があり、塀に囲まれて流造の本殿がある。

参拝した日は、境内左手の建物が工事中で白い塀に覆われていた。

社殿のある境内周囲には、曲水の宴などが行われる
美しい庭があり、季節の花々が咲いているらしいが、
僕は拝観していない。
また、京阪国道の向かい(西側)に鳥羽離宮跡があるが行ってない。
参拝の前日、宇治周辺をダラダラと歩き回って足を痛め
この日は、あまり歩きたくなかったのだ。

朱の鳥居の脇に手水舎があるが、「菊水若水」と呼ばれる井戸水で
あらゆる病に霊験があるらしい。僕は参拝時にこのことを知らず、
いつものように口をすすいで吐き出してしまったが、
ちゃんと飲んでおけば足の痛みも無くなっていたのだろうか。

東大寺のお水取りの水は、
若狭・遠敷川から「菊水若水」を通って、
二月堂の若狭井に達すると伝えられているらしい。

創祀年代は不詳。
社伝によると、神功皇后が三韓征伐の軍船に立てた御旗を
八千矛神の御霊を添えて当地に納められたことを起源とする。

桓武天皇の平安遷都にあたり、国常立尊を合祀して
皇城の南方鎮護として、日本不易皇太神宮と称し、
また、城の南方にあたるため、城南明神とも称された。

方除・厄除神として崇敬される神社であるが、
上京区の大将軍八神社、東山区の東三条大将軍神社
伏見区の藤森神社境内大将軍社と当社で四角形を構成しており、
僕は、当社は桓武天皇によって京の四隅に配置された
王城鎮護の大将軍社なのではないかとも思う。

応徳三年(1086)以来
白河・鳥羽天皇によって鳥羽離宮が造営されると、
その鎮守社として、離宮内に祀られたらしいが、
近くに鎮座していた眞幡寸神社と混同され、
城南宮=眞幡寸神社を考えられるようになったらしい。

明治三年、神祇官裁を経て、城南離宮皇神と称し、
明治六年郷社に列したが、
明治十年六月、正式に眞幡寸神社と改称して府社に昇格した。
だが、戦後、城南宮の名に戻したらしい。

鎌倉時代、後鳥羽院政期に和歌会が度々催され、
後鳥羽院が
「伝へ来る 秋の山辺の しめのうちに 祈るかひある 天の下かな」
摂政藤原良経(九条良経)が
「民の戸も 神の恵みに うるふらし 都の南 宮居せしより」
などの歌を残した。

幕末の鳥羽伏見の戦いでは、当地が主戦場となった。

当地は、平安遷都以前から秦忌寸氏の勢力圏で、
参道の真幡木神社は、秦氏の氏神であり、
式内社・眞幡寸神社に比定される古社。
もとは真幡木里(伏見区竹田真幡木町、竹田駅近く)に
鎮座しており、真幡木神社跡が若宮宮に
史跡石碑として残っているらしいが、ここにも行っていない。
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眞幡寸は、旗纛(はたおき)神の転化という説がある。

上記のように、城南宮と眞幡寸神社は別の社であるとするなら、
城南宮由緒の御旗を納めた社というのは眞幡寸神社なのではないかとも思える。

また、同じく伏見区にある藤森神社は、当社と同様に
神功皇后凱旋後に旗を納めことを起源とし、真幡寸神社を合祀している。
つまり、真幡寸神社の後継社は藤森神社ということにならないだろうか。
さらに、藤森神社は、もとは伏見稲荷大社の地にあったらしいが、
であれば、旗を納めたのは伏見稲荷大社の地なのだろうか。

本殿左には、稲荷社、厳島・住吉・兵主社、粟島社。
本殿右には、天満宮・妙見・金刀比羅社、庚申社、
大國主社、春日社の小祠が祀られている。

神紋は日月星。別名を三光紋といい、
神功皇后三韓征伐のおりの船首に立てられた御旗の紋章であるという。


西参道入口

東参道入口

境内入口

境内

拝殿

神輿舎

社殿

祈祷所

本殿


本殿左の境内社
稲荷社、厳島・住吉・兵主社、粟島社

本殿右の境内社
天満宮・妙見・金刀比羅社、
庚申社、大國主社、春日社

東参道の真幡木神社

参道に南面している

真幡木神社

東参道の芹川神社

芹川神社と「唐渡天満宮」

境内入口近くに北向きの三照宮社

三照宮社

城南宮 由緒
城南宮のご鎮座は、上古、神功皇后(息長帯日賣命)が、軍船にたて給う御旗八千矛神の御霊をつけて当地に納められたことによる。そしてその御旗の、日月星の御紋章が即ち当城南宮の三光の神紋の由来である。桓武天皇延暦13年(西暦794)の平安京遷都にあたり、国常立尊を合祀し、以来都の南方に鎮まり国を守護り給う城南明神と仰がれるに至った。平安朝の末期白河上皇は、賀茂川流域の水郷の当地を選んで城南(鳥羽)離宮を造営し院政を執られたので、一時は都の如く賑わい、中でも秋の祭礼は行粧華麗に行われた。更に、院や上皇は、熊野を初め物詣でにあたっての方除けのための御幸や精進所にあてられたことは、当宮の方除け信仰を平安の昔にみるものである。源平の時代を経、後鳥羽上皇が城南宮の流鏑馬に車寄せての鎌倉幕府追討の承久の変以来、鳳池荘観を極めた離宮の建築群も次第に衰退し、応仁の乱に至って全く荒廃してしまった。しかし、城南祭と方除け信仰は後世に承け継がれた。江戸時代享保6年9月霊元上皇修学院御所御幸に際して、風雨の難無きよう7日間の御祈祷を仰せられ、文久元年皇女和宮様関東御下向の道中安泰の祈祷、文久3年4月孝明天皇石清水行幸の途中御休憩御拝あらせられて、菊花御紋章の吹散一旒(ふきちりりゅう)を下賜せられ、尓来正月5月19日恒例の御代拝が立てられるなど、皇室の崇敬旧に復すと共に、京洛畿内の衆庶の信仰次第に篤く、「城南離宮社」「方除けの城南宮」と親しまれた。慶応4年3月明治天皇大阪御親征行幸の途次亦当宮拝殿に御駐輦親拝あらせられ、大正5年4月貞明皇后石清水行啓の際神苑に駐輿御休憩遊ばされ、近くは昭和55年3月浩宮様御学友と御入洛の折、御参拝、曲水の宴を御覧遊ばされた。。明治10年延喜式内真幡寸(まはたき)神社と公定されたが、昭和40年従来の社号「城南宮」に復している。神威愈々高く、普請、造作、転宅、旅行など方除けの神との信仰益々広く全国に行きわたり、家内安全、交通安全、安産、病気平癒と御祈祷の参詣者で終日賑わっている。

−『平成祭データ』−



最終更新日:2013/10/09
【 城南宮 (伏見区) 】

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