|
式内社 攝津國八部郡 生田神社 名神大 月次相嘗新嘗 旧官幣中社 生田神社公式サイトを開く 稚日女尊 |
神戸三宮駅のそばにある。
平成7年1月17日午前5時46分、
阪神大震災で倒壊した社殿も今は復旧している。
神功皇后が新羅征伐の後、難波へ凱旋の折り、
海中が旋回して船が進まない。
務古の水門に引き返し、神意をうかがったところ、
稚日女尊が、「吾、活田長峡國に居らまく欲す」と。
そこで、海上五十狭茅に祀らせたのが当社のはじめ。
社殿は復旧したので、鮮やかな朱だった。
都会にあるため、通勤路になっている。
学生や会社員が気楽に通って行く。
|
生田神社 兵庫県神戸市生田区 下山手通。旧官幣中社(現、別表神社)。稚日女尊を祀る。社伝によると神功皇后が外征より凱旋されたとき、務古の港にて「吾は沼田長峡の国に鎮る」と神誨されたことにより海上五十狭茅に祀られたと伝えられる。平城天皇大同元年(八〇六)摂津四四戸をもって神封とされ、また清和天皇貞観元年(八五九)正月に正五位上勲八等から従四位下となり、更に進んで貞観一〇年(八六八)には従一位を授けられた。その他『三代実録』『日本紀略』を徴すると、祈雨、鎮疫等の祈請奉幣をしばしば受けていることが散見される。『延喜式神名帳』には、名神大社と登載され、四時祭式には相嘗祭七一座の一に数えられ、臨時祭式には祈雨神祭八五座の一社に列されている。また玄蕃寮式には、新羅の客人が来朝の際、当社で酒を醸し、敏売崎にて蕃客に給せしめたと記載されている。平安時代中期以後の文献としては『枕草子』をまず第一に挙げねばならぬ。「社は布留の社、生田の社、旅の社」とあるのは有名なことで、これは、生田の森、生田の浦等多く歌に詠まれ、『後撰和歌集』『続千載和歌集』『新続古今和歌集』『夫木和歌集』等に載せられていることが大きい因をなしていると思われる。この生田の森は寿永三年(一一八四)の源平合戦、延元元年(一三三六)の楠木正成、足利尊氏の合戦等の際、常に陣地となり、そのために当社も戦禍に見舞われ、その際、貴重な諸文献が失われたのは惜しまれる。社領は二〇〇石を有し(『本朝年代記』『和漢三才図会』)、慶長年間(一五九六−一六一五)には片桐且元が二石を寄進したと伝えられている。現在の社殿は戦災にて焼失したものを昭和三四年再建を果たし、更に境内に生田神社会館も建立された。例祭四月一五日。七月一五日に千灯祭が行われる。また正月社頭に立てられる杉盛は民俗資料となっている。社宝に和田岬神幸絵巻(寛文三年〈一六六三〉)、後陽成天皇宸筆、甲冑(伝平通盛着用)、額(伝平重盛奉納)等がある。 −『神社辞典』− 生田社 生田里(神戸市中央区下山手通)にある。祭神 一座 稚日女尊(俗に天照大神の妹とする。和魂ともいう) 神功皇后が新羅を伐たれた翌年二月に、稚日女尊が誨えて、我は活田長峡国に居りたいと言われた。それで海上五十狭茅(うなかみのいそさち)に祭らせた。この神は昔(天上の)斎服殿(いみはたどの)にあって神の御衣を織られたのである〔貞観九年(八六七)十二月十六日、従三位に叙す〕。 ○箙の梅 社前にある。梶原源太景季が枝を折り箙に挿したので名づける。 生田は森・池・川・里・浦があり、皆名所である。北は山、南は海である。生田川は布引の滝の末流で、北から南に流れる〔ただし生田里は菟原郡に属す〕。 〔後撰〕幾度か生田の川に立ち帰る波に我身を打ちぬらすらん (読人不知) (「斎服殿云々」を除き『国花記』による)
−『和漢三才図会』− |