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式内社 大和國城上郡 宗像神社三座 並名神大 月次新嘗 旧村社 多紀理毘賣命、市寸嶋比賣命、田寸津比賣命 |
桜井から165号線を東へ向う。外山のバス停近く。
境内の裏山が開拓のためかなくなって、寂しい。
祠が3つあるが、両脇は末社のようだ。
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鳥見山北麓に鎮座。多紀理毘売命・市寸嶋比
売命・田寸津比売命を祀る。旧村社。「大和志」
は「延喜式」神名帳の城上郡「宗像神社」三座並名神大、月次」
に比定し、「今称春日」と記す。
当社は社伝「登美山鎮座宗像神社記」によると
南北朝時代、社人高階義岑が弟玉井入道西阿と
ともに南朝に味方して赤尾城(現桜井氏赤尾か)・
登美城(現外山か)に拠り、興国二年(一三四一)七月
三日敵将渡辺源四郎と鵄村(外山村か)に合戦
した際(玉井氏系譜)、鳥見山中腹にあった宗像神社
は兵火で焼失、山麓に小祠を構えてわずかに
奉祀するだけとなった。しかし当地に奈良興福寺
が外山荘を経営するに及び、春日明神と若宮社を
勧請して宗像社も春日社と称するようになったらしい(大和志)。 正平九年(一三五四)高階忠正は神霊を中腹の旧地から自邸に移し、これを 中島弁才天と称したという。 嘉永七年(一八五四)当地を訪れた国 学者鈴木重胤は、当地の里長玉井某の庭園に中 島弁才天が祀られていることを知り、中島は宗像 中津島のなまりで、弁才は神仏習合による女神 宗像神のことであると考え、宗像社再興に尽力。 安政六年(一八五九)宗像大社より神霊を迎え、 万延元年(一八六〇)社殿が完成した。明治八年 (一八七五)春日神社の社号を廃して宗像神社とした。 −大和・紀伊『寺院神社大事典』− |