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式内社 紀伊國名草郡 竈山神社 旧官幣大社 彦五瀬命 関連式内社 紀伊國名草郡 静火神社 名神大 境外摂社静火神社
彦五瀬命は、神武天皇の長兄である。
『古事記伝』では厳稲(いつしね)の意味とされている。 神武天皇は高千穂宮において、兄の五瀬命と相談し、 「何れの地に坐さば、平らけく天の下の政を聞し看さむ。」 「猶東に行かむと思ふ」 ということで、東遷を開始する。 順調だった東遷だが、難波の白肩津で、登美能那賀須泥毘古に敗れ、 五瀬命は手に痛矢串(矢)が当って傷を負う。 「吾は日の神の御子として、日に向ひて戦ふこと良からず。 かれ、賤しき奴が痛手を負いぬ。 今より行き廻りて背に日を負ひて撃たむ。」 五瀬命は、そう言って、南下を開始するが、結局死んでしまう。 |
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旧官幣大社。祭神は彦五瀬命。釜山神社とも
記す。北接して彦五瀬命墓(竃山墓)がある。記
紀に、神武天皇東征の際戦死した天皇の兄五瀬
命の墓が紀伊国の竃山にあると記されるが、
「続風土記」は和田村「竃山墓」の項に当所がそ
の竃山で、直ちに社を建てて斎祭したので竃山
墓と竃山神社は一所であると記す。 「延喜式」神名帳にみえる名草郡「竃山神社」に 比定され、「紀伊国神名帳」には「従四位上竃山 神」とある。永徳元年(一三八一)七月二五日の釜 山神社神主職宛行状(日前宮文書)によると、紀国 造家によって鵜飼新五郎が神主に補せられてい る。中世を通じて鵜飼家が神職を世襲していた らしく、天正一四年(一五八六)五月鵜飼吉政 神宝等覚(鵜飼家文書)に「彦五瀬命に奉仕和太御 庄鵜飼祖贄持之子神より、鵜養半太夫迄、弘治 年間に当りて七十九代相続き、以来歴数ふるこ と二千弐百余年なり」と記され、また天正一三 年三月、羽柴秀吉の紀州攻めによって神宝や古 文書などが焼失し、神田八町八段が没収された とする。社伝によると慶長五年(一六〇〇)浅野 幸長が入国して小祠を再建し、寛文九年(一六六 九)徳川頼宣によって社殿が再建されたという。 しかし以後も寺社奉行直支配の神社であり、一 戸の氏子も一石の社領もなく社運の衰微は著し かったと伝える。現在の例祭は一〇月一三日。 −『大和・紀伊 寺院神社大事典』− |