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小幡神社
おばたじんじゃ
京都府亀岡市曽我部町穴太宮垣内1  Zenrin Data Com Maps display !!


一つ巴

式内社 丹波國桑田郡 小幡神社
旧村社

御祭神
開化天皇
配祀 彦坐王 小俣王

京都府亀岡市にある。
亀岡駅の西3Kmほどの曽我部町に鎮座。
亀岡駅から西へ進み、京都丹波道路を越えてさらに1Kmほど。
372号線から、亀岡運動公園野球場辺りで南下して400m。
犬飼川の西岸に境内がある。

車道から下る階段が参道。
参道脇には「延喜式内 小幡神社」と刻まれた社号標。
参道入口は狭く、小さな境内を想像させるが
参拝すると懐の深い神域であることがわかる。

階段を下ると、砂利の参道に鳥居が建っており
参道を進むと拝殿がある。

拝殿の奥、階段の上に本社社殿があるが、
階段手前、境内左右に境内社がある。
右手には、祖霊社・百太夫社があり、脇に大きな石。
左手には、愛宕社があり、脇に社日がある。
社日とは五角形の石の柱に五柱の神々を刻んだもの。
出雲などの山陰に多く見られるものだが、
亀岡は出雲文化の影響が残っている地ということだろうか。
ちなみに、刻まれている五柱の神々は、
農業祖神・天照大神、五穀祖神・倉稲魂命、五穀守神・大己貴命
五穀護神・少彦名命、土御祖神・埴安媛命

階段を上ると正面に流造の本殿があり、
本殿前には参拝用の屋根が付けられている。

創祀年代は不詳。

社伝によると、開化天皇の第二皇子・崇神天皇の十年、
四道将軍丹波道主命が崇神天皇の父・開化天皇を祀ったのが当社の起源。
開化天皇の第三皇子・彦坐王と彦坐王の御子・小俣王を配祀した古社で、
和銅元年(708)大神狛麻呂が社殿を造営したという。

丹波道主命に関しては、彦坐王とする説や、
彦坐王の御子美知能宇斯王とする説がある。
丹波地方の他の式内社由緒では、
美知能宇斯王を丹波道主命と想定しているが、
下記の『平成祭データ』由緒では、
彦坐王を丹波道主命とし、混同されているようだ。

現在の本殿は、天和三年(1683)に建立されたもの。

当社の社号「小幡」は、祭神・小俣王に因むものとする説があるが
よくわからない。

当社の社宝に円山応挙の絵馬があるらしい。

本殿左右にも境内社がある。
本殿右手には地主社、左手には遷之宮。
また本殿左手に、参道に背を向ける位置に大原社。
さらに左手奥に、朱の鳥居が並んでおり、稲荷社が祀られている。

社殿の屋根には「一つ巴」の紋が付いていた。


参道

社号標

境内と鳥居

境内

拝殿

社殿

境内左
社日と愛宕社

境内右
祖霊社・百太夫社

本殿

本殿左、遷之宮

本殿右、地主社

境内左奥、稲荷社

本殿左、大原社

小幡神社
 当社は、崇神天皇の命により派遣された 四道将軍のひとり、丹波地域を治めた丹波道主命が、皇祖開化天皇を主神として祀っ たことに始まるといわれ、開化天皇の御子 の彦坐王とその御子小俣王の三代を奉斎し ています。
 また社伝等によると、和銅元年(七〇八) に、丹波国司大神朝臣狛麻呂が霊域に社殿 を建立され、延長五年(九二七)に編纂さ れた『延喜式』「神名帳」にも記載された 古社です。
 社蔵の棟札によると文和元年(一四四二) には管領細川政元の本殿造営とその後明応 元年(一四九二)を始めとする修造、屋根 葺替えが行われています。現在の社殿は、 天和三年(一六八三)に造立された一間社 流造、檜皮葺の建物です。亀岡市内で妻に 二重虹梁大瓶束を用いた早い事例であり、 京都府の登録文化財となっています。また、 社宝として全国に三幅といわれる円山応挙 の絵馬の一つが保存されています。

−境内案内板−



延喜式内小幡神社由緒書 参拝者配布用
祭神1.開化天皇。和風の諡(おくりな)は『古事記』に若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおおひひのみこと)と記し、『日本書紀』に稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおひひのみこと)記す。孝元天皇の第二子と伝え、開化天皇の第二子を崇神天皇とする。
祭神2.彦坐王(ひこいますのみこ)。『古事記』に日子坐王と記し、『日本書紀』に彦坐王と記す。開化天皇の御子とする。『古事記』によれば、崇神天皇の代、丹波へ派遣されて、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を誅伐したと伝える。
祭神3.小俣王(おまたのみこ)。彦坐王の御子で、『古事記』によれば、山代(やましろ)の荏名津比売(えなつひめ)(亦の名苅幡戸弁=かりはたとべ)を母とする。
丹波の地域が丹波と丹後に分けられたのは、和銅六年(713)であり、それ以前の丹波は、丹後を含む地域であった。丹波の古伝承でみのがせないのは、『古事記』や『日本書紀』に記載する倭(やまと)王権とのかかわりである。『古事記』には若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が旦波(たには=丹波)の大県主由碁理(おおあがたぬしゆごり)の娘である竹野媛を娶(めと)って、比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)を生むと記し、『日本書紀』では稚日本根子彦大日日尊(開化天皇)が丹波の竹野媛を納(め)して彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を生むと記す。開化天皇の妃が丹波大県主の娘であったとする『古事記』の伝えは、「大県主」と称される県主が、河内の志畿(しき)大県主の説話(『古事記』雄略天皇の条)のほかにみえない点で注目すべきである。丹波の出自をめぐる皇妃伝承には、『古事記』や『日本書紀』に垂仁天皇の代のこととしてみえる丹波道主命(みちぬしのみこと)の娘を妃にした説話あるいは『日本書紀』の仁徳天皇十六年の条に載(の)す仁徳天皇と丹波の桑田の玖賀媛(くがひめ)との悲恋説話などがある。
『日本書紀』には、崇神天皇六十年の条に丹波の氷香戸辺(ひかとべ)の小児(わかこ)に出雲大神の託宣があったとする伝えがあり、また垂仁天皇八十七年の条に、丹波の桑田の甕襲(みかそ)が勾玉(まがたま)を貢上したとする伝承がみえているが、とりわけ重要な所伝は、武烈天皇なきあとの皇嗣として擁立されんとしたのが、丹波の桑田にあった倭彦王(やまとひこのみこ)であったとする記載である。倭彦王は即位を避けて身をかくしたという(『日本書紀』継体天皇即位前紀)。弘計王(をけのみこ=顕宗天皇)・億計王(おけのみこ=仁賢天皇)もまた丹波に難を避けた皇子であり、「丹波の小子(わらこ)」とよばれたことが、『日本書紀』(顕宗天皇即位前紀)にみえている。延長五年(927)に奏進された『延喜式』にも収録されている丹波国の小幡神社は、延喜式内の古社であって、開化天皇を主神とする式内社は、全国いずれの地にもない。なぜ開化天皇を主神とし、相殿に彦坐王と小俣王を祭祀するのか、そのいわれは前述の倭王権と丹波とのかかわりに深く根ざしている。
『日本書紀』には有名な「四道将軍」の派遣説話があり、崇神天皇の十年九月に、大彦命(おおひこのみこと)を北陸へ、武渟川別(たけぬかかわわけ)を東海へ、吉備津彦(きびつひこ)を西道へ、丹波道主命(みちぬしのみこと)を丹波へそれぞれ遣(つか)わしたという。『古事記』ではその内容に差異があって、大毘古命(おおひこのみこと)を高志(越)へ、建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)を東方へ、日子坐命を旦波へ遣わしたとし、「四道」ではなく「三道」への派遣説話となっている。これは『古事記』の記述が、孝霊天皇の条に大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)らを吉備へ派遣したことを別に載せているためである。
このように『古事記』と『日本書紀』とでは、そのなかみに異なるところがあるけれども、彦坐王(日子坐命)は開化天皇の御子であり、丹波道主命(『古事記』では丹波比古多多須美知宇斯王=たにはのひこたたすみちうしのみこ=と書く)もやはり開化天皇の御子であった。すなわち開化天皇と和邇氏(わにうじ)の遠祖意祁都比売(おけつひめ)(『日本書紀』では姥津媛=おけつひめ)との間に生まれたのが彦坐王であり、開化天皇と近江の三上祝(みかみのはふり)がまつる天之御影(あめのみかげ)神の娘息長水依比売(おきながのみずよりひめ)との間に生まれたのが丹波道主命であると伝承する。丹波の曽我部町穴太の里に、開化天皇・彦坐王・小俣王を奉斎する小幡神社が創祀されたいわれは、丹波が開化天皇・彦坐王・丹波道主命と密接なつながりを保有していたことに由来する。
古伝承に丹波道主命がその父にあたる開化天皇を創祀したとするのも、こうした系譜伝承にもとずく。社伝によれば和銅元年(708)、丹波国司となった大神朝臣狛麻呂(おおみわのあそんこままろ)が、その霊域に社殿を建立したという。その後丹波の神徳篤き氏神また産土神(うぶすなのかみ)として尊崇をあつめ、たびたび本殿の修補がなされてきたが、現本殿は享保九年(1724)に改修されたものである。古く穴穂宮とも称されたことは正長元年(1428)の古文書にうかがわれる。江戸時代には穴太は旗本の知行地となったが、宮党(みやのとう)が組織されて祭祀の伝統は氏子のなかに連綿とうけつがれてきた。
小幡神社の創祀にゆかりのある霊域に高熊山があり、また神社の裏山には、俗称「堺塚」とよばれた竪穴式古墳が存在した。その調査報告は『考古学雑誌』(9巻の11号)に掲載されているが、直刀一、剣身一、槍身一、蓋杯二、勾玉三、臼玉五、刀子一などが出土し、東京博物館に収蔵されている。また宗教法人大本の出口王仁三郎師は、幼少のころから小幡神社を信仰し、明治三十一年(1898)、二十七才のおりの高熊山での修行は、小幡大神の神示による。円山応挙もあつく小幡大神をあがめ、応挙の父藤左衛門は応挙に命じて絵馬を描かしめ、享和三年(1803)には応挙の子応瑞がこれに装飾して奉納した。社蔵の神馬図(板地着色)がそれであり、写実様式による絵馬は珍しくその特色がよくいかされている。応挙の絵馬は全国的にも稀で、貴重な傑作である。神名稚日本根子日子大日日尊の「ワカヤマト」は新しい「ヤマト」を象徴しており、その大いなる神霊の神徳は、氏子のみならず全国崇敬者におよぶ。
昭和五十二年八月二十七日謹記

−『平成祭データ』−



【 小幡神社 (亀岡市) 】

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