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式内社 紀伊國名草郡 伊達神社 名神大 旧郷社 五十猛命,神八井耳命 相殿 市杵島姫命 五十猛命,素盞嗚尊 『紀伊続風土記』 紀ノ川の北1Km、阪和線六十谷駅の西1Kmにある。 7号線から入ると、有功小学校の裏側。 社域は広く、奥行きがある。 鳥居をくぐり、北へ木々の茂る参道を進むと、境内。 本殿周囲には多くの末社がズラリと並んでいる。 伊太祁曾神社と同神を祀ることから、「一宮大明神」と呼ばれ、 志摩・静火と合わせて、「紀三所の神」とも呼ばれる。 社名(神名)は、「以多知(イタチ)」と読むが、現社名は、いだて。 延喜式神名帳には、伊達神社が、陸奥・丹波にも見られ、 韓國伊太氐神社は、出雲に六社。 どれも、五十猛命を祭神と考えられている。
江戸時代、官命により、伊達神社の社名は、
若山港吹上神社(和歌山城近く)に移され、当社は園部神社とされた。 吹上神社が、伊達神社を主張し、和歌山藩がそれを認めたため。 明治になって、旧号に戻した。 |
社前の道は狭く駐車スペースが見つからず、
少し離れたスーパーマーケットに駐車。
参拝は夕方だったため、木々の茂った参道は真暗だが、
近所の方達が、木の実を拾っていた。
社殿は春日造、王子造とも呼ぶが、あまり違わない。
周囲にぐるっと末社が多く並んでいる。
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古来志磨・静火両社とともに紀三所社と称さ
れる。祭神五十猛命・神八井耳命。旧郷社。「延
喜式」神名帳の名草郡に「伊達神社(いたち)」がみえ、名
神大社。神階は、「続日本後紀」承和二年(八四
四)一一月三日条によれば従五位下から正五位下
に、同書嘉祥三年(八五○)一○月二一日条では
従西位下に、「三代実録」貞観元年(八五九)正月
二七日条では正四位下に、同書貞観一七年一○
月一七日条では従三位にそれぞれ昇叙されてい
る。「紀伊国神名帳」には正一位と記される。当
社はこの伊達神社に比定されるが、「続風土記」
には「享保の頃まても神名伊達神社なる事は世
に明なれは、享保六年境内四至榜示禁殺生の制
書を賜ふにも伊達社と書されしに、近世に至り
て伊達の神名を他に移されて、此神を園部神社
と称ふへき官命あり、是妄説を唱へて官を欺き、
神明を誣る者の所為に出て信用すへきに非され
は、今其誤を明弁す」と記されており、伊達神
社の比定をめぐって争論があった。この争論の
原因は、同書の吹上・衣毘須両社の項によると、
和歌山城下小野町の吹上社が寛保年間(一七四一−
四四)に突如として伊達神社であることを主張、
和歌山藩がそれを認めたことによる。このため
「紀伊国名所図会」は式内伊達神社を吹上社に比
定している。 園部に鎮座することから薗部神社ともよぱれ、 神八井耳命を併祀することについて「紀伊国名 所図会」は、中世薗部の地に居住した園部氏の 祖が神八井耳であることによるとしている。承 安四年(一一七四)一二月日の紀実俊解状案(栗栖 家文書)に、河南島(現松島に比定される)の所在を 示して「西則紀三所・神宮」とあり、この当時、 伊達をはじめとする紀三所社は、河南の日前宮 (現和歌山市)にほど近い一力所にまとめて祀られ ていたことが知られる。すなわち、伊達神社が 園部の地に遷座したのは承安四年よりも後のこ ととなる。もし「紀伊国名所図会」の説が正しい とするならば、伊達神社に神八井耳命が祀られ るようになったのは園部に遷座を終えた中世以 後であろう。「続風土記」によると織田信長によ って社殿は焼かれたと伝えるが、真偽のほどは 不明。寛保年間以後藩命によって「伊達神社」の 称を吹上神社が有していたため薗部神社を名乗 り、薗部・大谷・平井・善明寺四ヵ村(現和歌山市) の産土神とされた。明治維新によって旧号に復 した。現例祭日は一〇月一三日。 −『大和・紀伊 寺院神社大事典』− |
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