きたの
京都府京都市上京区馬喰町

旧官幣中社

菅原道真公 相殿東座 中将殿(道真嫡男) 相殿西座 吉祥女(道真妻)

境内式内社
伴氏社 山城國葛野郡 伴氏神社 大 月次新嘗

神明社 山城國愛宕郡 高橋神社
天照大神,豊受大神
高橋連氏神 『神名帳考證』

北野天満宮公式サイトを開く

太宰府とともに全国天神・天満宮の本社で、
あまりにも有名なので、説明することがない。

参道西側にある伴氏社は、式内伴氏神社の論社の一つ。
だが、道真の母伴氏のためにあった五輪石塔を、明治に撤去し
跡地に立てられたものらしいのだが。
社前の鳥居は、「中山鳥居」と呼ばれる形式で
貫が柱を貫通していないもの。
岡山の中山神社にあるものと同じ形だ。

本殿後方に地主神社という摂社がある。
『続日本後紀』に「承和三年(八三六年)二月一日、
遣唐使のために天神地祇を北野に祭る」とある。
天満宮以前からある神社である。
『和漢三才図会』では、北野天神とされており
キタノテンシンと天神が濁らない。

本殿西側にある神明社は、『神名帳考證』において、
式内高橋神社の論社とされ、祭神は、高橋連氏神ではないか、とされている。
元は紙屋川ほとり、高橋の近くの小社で、高橋神明と呼ばれていた。

北野天満宮
 菅原道真公を祀り、一般に「北野の天神さん」と 呼ばれ、学問の神として崇められている。
 天暦元年(九四七)の創建と伝え、天徳三年(九五九) 藤原師輔によって社殿が整備され、天正十五年(一五八七) には豊臣秀吉が、付近一帯の松原で北野大茶会を催した。
 本殿(国宝)は、豊臣秀頼が、慶長十二年(一六〇七)に造 営したもので、権現造の代表的遺構である。また、中門は三光 門と呼ばれ、後西天皇筆の勅額「天満宮」を掲げている。
 宝物としたは、紙本著色北野天満宮縁起絵巻(国宝) など貴重な文化財を蔵している。
 毎年二月二十五日には梅花祭、十月四日には瑞饋祭が催さ れるほか、毎月二十五日の道真公の命日には多くの参拝者で賑う。

−境内案内より−

 朱雀天皇の天慶三年(九四〇)七月、菅公の霊が右京七条の婢文子という者に託って、右近の馬場に棲みたいと言った。そこで村上天皇の天暦元年(九四七)に北野右近馬場に霊祠を移した。

 言い伝えによれば、同九年(九五五)三月に菅公の霊が良種〔良種は江州比良杜の禰宜〕に託って、北野に一夜に松千株が生える。そこに社を建て天満天神と崇むべし、と言った。そこで良種は北野の朝日寺の僧最鎮・法儀・鎮西らの許に行き、託宣の旨を語り、相議して文子と共に霊祠を営んだ。〔村上天皇の〕天徳三年(九五九)、右府(右大臣)藤原師輔公は篤く神徳を敬し、宝殿を造った。境内は大そう賑わった〔菅公逝去より五十六年に至る〕。ところが、同年九月二十三日に禁裏に火災があり、円融院の朝に休息するまで数度焼失した。新殿の天井板に一夜虫喰いがあって文字になっていた。それは和歌であった。

作るとも又も焼けなん菅原やむねの板間のあはん限りは

 ここに北野宮を改めて天子の造営とした〔それゆえ宮と称し、社といわない〕。その後神の祟りは徐ろに止んだ。一条院の正暦五年(九九四)二月、勅使を大宰府安楽寺に遣わし、太政大臣正一位を贈称した。神託があり、これより以後は皇基を護ろうといった、という。

−『和漢三才図会』−