しもごりょう
京都府京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町

式内社 山城國愛宕郡 出雲井於神社 大 月次相嘗新嘗 私云神式第二相嘗祭出雲井上上社一座是也
旧府社

八所御霊
(吉備聖霊)
(崇道天皇:桓武天皇皇太子早良親王)
(伊豫親王:桓武天皇皇子、贈一品)
(藤原大夫人:伊豫親王御母、贈従二位藤原吉子命)
(藤原大夫:藤原廣嗣命)
(橘大夫:贈従四位下橘逸勢命)
(文大夫:文屋宮田麻呂命)
(火雷天神)
相殿 天中柱皇神,霊元天皇

京都御所の南西すぐ。
到着した頃から雪が降り始めた。

もとは、京極の東にあった下出雲寺の鎮守として、仁明天皇の創建。
後に、新町近衛に移され、天正17年、秀吉の都市改造で現在地へ。

季節のせいか、雪のせいか、あるいは御霊神社だからか、
境内はひっそりとしている。


藤原大夫人・伊予親王
 伊予親王〔桓武天皇の子、平城天皇の弟〕
 平城天皇の大同二年(807)、藤原宗成の勧めにより謀反の意志があったが、発覚した。親王及びその母藤原夫人(ぶにん)吉子は捕らえられ、川原寺に押し籠められ食を断った〔平城天皇は同腹の弟神野親王を太子としたので、伊予はこれを恨んだのである。神野は後に嵯峨天皇と号する。〕。両人は薬を呑んで自殺した。宗成は流罪になり、大納言藤原雄友〔伊予親王の外舅〕は伊予国へ流された。

−『和漢三才図会』−

他の祭神については、上御霊神社を参照。

 社伝によれば、大同二年(八〇九)不運のうちに亡くなった 伊予親王(桓武天皇の皇子)とその母の藤原吉子の霊をなだめる ために、承和六年(八三九)に創建されたといわれている。祭神は、 後に、崇道天皇(早良親王)、吉備真備、藤原広嗣、橘逸勢、 文屋宮田麿、火雷天神を加えて八所御霊としている。
 当初、出雲路(上京区)にあり、御霊神社の南にあったことから 下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々 とし、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の都市整備により当地に 移転してきた。古来より、京都御所の産土神として崇敬され、享保年間 (一七一六〜三六)霊元天皇は当社に行幸し、宸筆の祈願文を納めている。
 本殿は、寛政三年(一七九一)仮皇居の内侍所を移建したもので、 表門は、旧建礼門を移したものといわれている。
 境内の垂加社には、江戸時代の国学者、山崎闇斎を祀る。

−境内案内より−