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石清水八幡宮
いわしみずはちまんぐう
京都府八幡市八幡高坊30  Zenrin Data Com Maps display !!
石清水 松かげ高くかげ見えて 絶ゆべくもあらず 万代までに

 三つ巴
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旧官幣大社

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御祭神
誉田別尊 多紀理毘賣命 市寸嶋姫命 多岐津毘賣命 息長帶比賣命

京都府八幡市にある。
淀川のそばにある男山に鎮座。
京阪八幡市駅からケーブルカーで登ると、境内の裏側。
西参道を通って南総門の横に出る。

八幡市駅から一之鳥居を通って歩いて境内に入ると、
二之鳥居の側に裏参道(太子坂)への上り口がある。
そちらを登ると、岩清水社の側を通って東参道へ抜ける。

二之鳥居をまっすぐに進むと、七曲りの参道。
途中、大扉稲荷で参道が分かれ、右に進むと石清水社。
まっすぐ登ると三之鳥居がある表参道。
三之鳥居から、石畳の参道が北へ延び、南総門へ。

南総門をくぐると、広い境内。
正面に楼門と廻廊に囲まれた社殿がある。
現在の社殿は、寛永11年(1634)のもの。
残念ながら、八幡造の本殿を撮影することが出来なかった。

清和天皇貞観元年(859)、南都大安寺の僧行基が、
「吾、王城近き石清水男山の峯に移座して国家を鎮護せん」という
豊前宇佐八幡の託宣を蒙り、
まず、現在の離宮八幡宮の地に至り、
その後朝廷より宣旨を受けた橘良基が当地に六宇の社殿を建立。
翌年、三所の神璽を奉安せられたのが当社の創始。
山城・河内を眺望できる場所にあり、
王城の裏鬼門に位置し、王城鎮護に相応しい。

『和漢三才図会』には、男山の峯を鳩峯と記している。

延喜式神名帳に記載の無い式外社で、
「石清水文書」には、当社と平野社祇園社など、
魚味を供さない社は神名帳に載せない旨が記されているらしい。
(平野社は延喜式に載っているのだが)

古来、伊勢の神宮に次ぐ、第二の宗廟として上下の尊崇が篤く、
特に皇室においては崇敬が深く、
永祚元年(989)にはじまった行幸は、
明治天皇まで240余度にも及ぶ。
また源氏の崇敬社でもあり、全国各地四万社にその分霊が祀られた。

ケーブルカーに乗ったことが無かったので、
今回の参拝はケーブルカー。
八幡市駅の側の乗り場でケーブルカーに乗り込むと、
貸切状態で不安になった。

境内に入ると粉雪が舞い始めたが、
徐々に陽が差し込んで美しい社殿を堪能。

参拝を終えて表参道をゆっくりと下る。
麓の高良社に参拝している時に、石清水社を参拝していないことに気づく。
参道を戻って、裏参道(太子坂)を上る。
こちらの参道は初めてだった。
表参道よりも道は狭いが整備されて歩きやすい。
静かな参道で、木々の匂いも瑞々しい。

当社には、まだまだ参道があり、諸坊の後が散在している。
ぜひ、また歩いてみたい、そんなお宮。

廻廊のまわりや参道に幾つかの境内社が並んでいる。
当社には8つの摂社と10の末社があるらしい。

まず、ケーブルカー乗り場から西参道を歩くと
末社・三女神社(宗像三女神)。

廻廊の左手には三末社である、
長田社(事代主命)、生田社(稚日女命)、廣田社(天照大御神)。

廻廊後方に左手から、
摂社・住吉社(底筒男命 中筒男命 表筒男命)、末社・一童社(磯良命)。
末社・龍田社(級津彦命 級津媛命)、末社・貴船社(高靇神)。
そして摂社・若宮社(仁徳天皇)、摂社・若宮殿社(應神天皇皇女)。

廻廊右手には、
末社・気比社(氣比大神)、摂社・水若宮社(宇治稚郎子命)。

廻廊右手から東参道へ降りると、
末社・水分社(國之水分神)があるが、未参拝。
廻廊内瑞垣の中に、摂社・武内社(武内宿禰命)があるらしいが、
これも未参拝。

他の境内社は次のページに掲載。


三之鳥居

参道

南総門

境内と楼門

三女神社 宗像三女神

長田社・生田社・廣田社

住吉社・一童社

龍田社・貴船社

若宮社

若宮殿社

神倉

気比社・水若宮社

八幡大神は男山に御鎮座され、都の守護神、国家安泰の神として、朝廷は元より、広く国民に篤い崇敬を受けて参りました。特に清和天皇の嫡流である源氏一門は、八幡大神を氏神としてその信奉の念は格別で、全国各地に八幡大神を勧請しました。源義家は、自ら「八幡太郎義家」と名乗ったことは有名です。以来、勝運の神・厄除け開運の神として崇敬されてきました。特に当宮における厄除けの信仰の歴史は古く、今尚全国屈指の厄除けの神社として、新春の厄除大祭を始め年間を通し参拝に訪れる方々は跡をたちません。「世は変われども神は変わらず」八幡大神の御神徳は、まさに広大無辺であります。貞観元(859)年木工寮権之橘良着基は、時の清和天皇の御命令を承て、この男山の頂きに六宇の宝殿を建立し、順次「八幡造り」の社殿を完成させるに至りました。以来、造営14度・小修理17度に及び、現在の社殿は寛永11年(1634)徳川三代将軍家光公の御造営によるものです。檜皮葺の本殿は前後二棟から成り、その軒の接する所に織田信長公寄進の「黄金の樋」が架られております。本殿から弊殿・舞殿・楼門と続き、その周囲を約180mに及ぶ廻廊が囲んでおります。本殿をはじめ建物すべてを丹漆塗で施し、随所に当時の名匠の彫刻が刻まれており、極めて壮麗な社殿であります。建物の全ては、国の重要文化財に指定されております。平安時代始めの貞観元年(859)南都大安寺の僧行教は、豊前の国(現大分県)宇佐宮にこもり日夜熱祷を捧げ、八幡大神の「吾れ都近き石清水男山の峯に移座して、国家を鎮護せん」との御託宣を蒙り同年男山の峯に御神霊を御奉安申し上げたのが当宮の起源であります。そして朝廷は翌年同所に六宇の宝殿を造営し、4月3日に御遷座されました。天慶2年(939)に起こった平将門・藤原純友の乱の折には、朝廷より御請願があり八幡大神の御神威をもって速やかに平定されて以来、国家鎮護の社として朝廷の御崇敬は益々篤いものとなりました。天皇・上皇の行幸や御幸は、円融天皇(第64代)の御参拝以来実に240度にも及び、伊勢の神宮に次ぐ第2の宗廟とも称されました。男山は、木津・宇治・桂の三川の合流点を挾んで天王山と対峙する位置にあり、京・難波間の交通の要地であります。また、南北朝時代の大小の戦い羽柴秀吉と明智光秀の天王山の合戦等で良く知られる政治上の重要な拠点でもありました。この交通・政治上の要の地に御鎮座され、我が国を平和と繁栄にみちびく神として多くの人々に崇められ、現在では八幡大神を祀る神社は、全国津々浦々約4万社にもなります。明治初年には官弊大社に列せられ、男山八幡宮と改称されました。しかし、「石清水」の社号は創建以来の由緒深い社号であるため、大正7年に再び「石清水八幡宮」と改称され、現在に至っています。

−『平成祭データ』(原文ママ)−


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【 石清水八幡宮 】

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