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式内社 大和國宇陀郡 宇太水分神社 大 月次新嘗 旧県社 第一殿、天の水分の大神 第二殿、速秋津彦の大神 第三殿、国の水分の大神 |
31号線と166号線の交差するところ。社殿は国宝。
瑞垣内に末社春日神社と宗像神社がある。なぜ宗像なのか?
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当神社の創記は太古まで遡ることができ、第十代崇神天皇七年二月の勅祭と伝えられている。また、大和朝廷の勢力範囲の東西南北に祀られた水分の神の東に当たるのが、当社である。 平安時代以降も朝廷の崇敬篤く、「新抄格勅符抄」によると、平城天皇の大同元年(八○六)の牒に神封一戸が奉られており、承和七年(八四○)、貞親元年(八五九)それぞれ神位を進められた。貞観元年九月八日には、奉幣使を派遺して風雨を祈られている。醍醐天皇の延喜の制で大和四水分杜は大社に列せられ、祈年祭・新嘗祭・月次祭の案上官幣に預かり、祈年祭には座別に絁三尺木綿二両以下を、また特に馬疋が献上された。そして醍醐天皇の御代に編纂された「延喜式」には以下のような記載が見られる。 臨時祭式には、祈雨神祭八十五座の一座に列せられ、座別絹五尺、五色薄絁各一尺、絲一絇、綿一屯、木綿二両、麻五両、白馬等が献上されたと明記されている。 祝詞式には、祈年祭の祝詞として、水分坐皇神等能前爾白久。吉野、宇陀、都祁、葛木登御名者白氐云々。 神名式には、宇陀郡十七座 大一座 小十六座の中の大社。 中世に入ると朝廷から賜った物の記録は殆ど見られなくなるが、南北朝時代の正平六年(一三五一)五月、後村上天皇は唐招提寺より三輪を経て宇太水分宮に移られ、さらに吉野に遷幸されたと興福寺金蔵院實厳の日記「細々要記」にある。また、後村上天皇皇孫堯成親王が応永十八年(一四一一)当杜に梵鐘を寄進されている。今その鐘の所在は不明であるが,「菟田野町史」(昭和四十三年出版)金石文の項によれば、寛永九年(一六三二)大宇陀町岩室の徳源寺に売却されたことが知られる。なお、鐘銘の拓本は同町の森野家が保存している。 その後、近代になると大正十一年(一九二二)五月十九日に、伏見宮文秀女王が御榊を奉られ、黒松を植樹された。また、昭和天皇の御代には、高松宮殿下が昭和三十年(一九五五)五月十二日に参拝され玉串料を奉られ、銀杏を植樹されている。 現存する本殿は鎌倉時代末期の元応二年(一三二○)二月に造営された。また、年代は詳らかではないが室町時代には、境内社の春日神社・宗像神社の杜殿の建造が行われている。 −由緒より− |