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旧府社 離宮八幡宮公式サイトを開く 應神天皇 神功皇后 左殿 酒解大神(大山祇神) 右殿 比売三神(市杵嶋姫命 湍津姫命 田心姫命) |
京都府と大阪府の境、山崎駅の南側にある。
道路に面して、塀に囲まれた境内。
高麗門をくぐり、少し東へ歩くと鳥居があり、
後方正面に神門。
神門の手前、右手には、
「本邦製油発祥地」の碑と「河陽宮故址」の碑。
その横に、油を運ぶ油祖の像が立っている。
数段の階段をのぼり、神門をくぐると、正面に拝殿。
右手に社務所、左手に広い場所があり、境内社が並んでいる。
拝殿後方には、垣に囲まれて流造の本殿。
清和天皇貞観元年(859)、南都大安寺の僧行基が、
「吾、王城近き石清水男山の峯に移座して国家を鎮護せん」という
豊前宇佐八幡の託宣を蒙り、
勅命により、行基が八幡神を奉じて山崎の地に至った時、
当地で霊光を見、不思議に思って、掘ってみると岩間に清水が湧き出したため、
当地を社地と定めたという。
嵯峨天皇の離宮があった河陽宮故址に勧請されたお宮。
社殿の左手には、その石清水がある。
その後、朝廷より宣旨を受けた橘良基が男山に六宇の社殿を建立し、
石清水八幡宮が創祀された。
つまり、当社は、石清水八幡宮の元社にあたる神社。
また、当社の神官が、貞観年間に「長木」という搾油器を発明し、
荏胡麻油の製油を始めたため、油祖の神としての信仰も篤いという。
神紋は、三本の杉。
神門の提灯や神馬像に付けられたいた。
ゴールデンウィークの前半を徳島で過ごし、
後半の琵琶湖周遊のため、滋賀県に向う途中に立ち寄った。
天候が悪かったが、
雨のためか、境内の緑が活き活きをして、
社殿も境内もキラキラと光っていた。
境内左手には、石を綺麗に並べた場所がある。
なにかの祭祀に用いられているような雰囲気ではある。
並んだ石の傍らには、腰掛天神が祀られていた。
たんなるベンチとして使用しているのかもしれないので、
真相は知らない方が面白いだろう。
他の境内社として、社殿の左から、
武内社、天照皇太神社、蛭子神社、鹿島神社、気比宮、
高天宮神社、小禅師宮、勝手神社、腰掛天神社、高良社など。
社殿の右手には若宮神社。
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油の神様
第五十六代清和天皇貞観元年(今から千百十年前)八月二十三日勅命を以て、豊前国宇佐八幡宮から嵯峨天皇の離宮であった河陽宮の故趾に遷され、元治元年兵火に罹る迄は西の日光と称えられた宏壮優美にして壮厳華麗なるお社であった。清和天皇の貞観年中、山城国大山崎荘の長者等始めて、油をしぼる「しめ木の具」を工みて荏胡麻を絞りたるを始めとする。都名所に山崎離宮とあるは、当神社の事にて、彼の職人歌合に、「宵ことに都へ出づる油売、ふけてのみ見る山崎の月」と歌ひし如く其の当時は全国の人々が山崎の油を用ゐない人はなかつたのである。即ち「上はすめらぎの御所より、下はあまさかの鄙に及び、民くさあまねく荏胡麻もて、しぼりし山崎の油を用ゐずといふことなしと」これによりて帝より忝くも綸旨院宣を給ひつゝ、即ち山崎の長をば天が下の油座の長とし給ひて、禁中の御灯油料及び八幡宮祭典の為に、諸国の油の税租をもて、山崎の油座へ賜ひ長く諸関、津料並に公事課役等を免除せられ、鎌倉の右大将家より足利、徳川将軍家に至るまで其議をたがはせ給はず天が下の油業者は山崎八幡宮の許なくして油を売買することは出来ないのみならず、各関所を通ることすら出来なかったのである。 −『平成祭データ』− |