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大屋都姫神社
おおやつひめじんじゃ
和歌山県和歌山市宇田森59
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式内社 紀伊國名草郡 大屋都比賣神社 名神大 月次新嘗 |
紀ノ川の北1Km、阪和線紀伊駅の南1Kmにある。
隣は保育園、川永団地の側。
境内は広いが、北側の垣の中に、三社が鎮座している。
本殿は王子造。熊野王子に多い造りになっている。
左右に兄弟神である、五十猛命と抓都姫命の脇宮。
『中世諸国一宮制の基礎研究』では、総社明神が
ここに合祀されているとある。
創祀年代は不詳。
式内社・大屋都比賣神社に比定されている古社。
祭神大屋都姫命は、素戔嗚尊の子であり、
五十猛命の妹神、あるいは妃神とされている。
素戔嗚尊が全身の毛を抜いて木々とし、
兄妹神達(五十猛命・抓都姫命)と植えた木の神である。
神名からすると、住居等の材木の神なのだろう。
本来は、日前国懸神宮の鎮座する秋月に鎮座していたが、
垂仁天皇十六年、山東の地、亥の杜に伊太祁曾神社と共に遷座された。
さらに『続日本紀』によると、大宝二年二月、
伊太祁曾神社の五十猛命・大屋都姫命・抓都姫命の三神を分離。
大屋都姫命は分祀されて、北野の御祓山に遷座。
その後、現社地に遷されたという。
境内の隣接地には、弥生式宇田森遺跡があり、
県下最大の住居跡が発見された。
古代から栄えた地だったようだが、
その地に住居の神が祀られているのは興味深い。
境内の北側瑞垣内に社殿が鎮座し、周囲には木々が茂っている。
瑞垣前は広いスペースで、何もない空間になっている。
本殿は王子造で、周囲に霧除けが施されている。
境内 |
鳥居と鈴門 |
左脇宮 五十猛命 | 本殿 | 右脇宮 抓都姫命 |
社号標 | 鈴門 | 若宮? |
紀ノ川北岸の河岸段丘上に鎮座。「延喜式」神
名帳にみえる名草郡「大屋都比売神社」に比定さ
れる。旧県社。祭神は大屋都姫命、相殿に五十
猛命・都麻都姫命を祀る。この三神は「日本書紀」
神代上の宝剣出現の段の一書に名がみえる。一
括して伊太祁曾三神ともよばれ、紀伊国に木種
をもたらした神と伝えられる。社伝によると、
本来の社地は、他の伊太祁曾二神とともに日前
国懸神宮(現和歌山市)の鎮座地であったが、そ
の地を日前国懸神宮に譲って三神とも山東(現同
上)ヘ遷座し、大宝二年(七○二)に三神が分遷さ
れて、大屋都姫神社は現在地に鎮座したという。
三神の分遷は「続日本紀」大宝二年二月一三日条
にもみえる。大同元年(八○六)の牒(新抄格勅符
抄)によると七戸の神戸が給されている。「和名
抄」には「大屋神戸」はみえないが、名草郡に大
屋郷が重複して載るので、いずれか一方が「大
屋神戸」を示すと考えられる。「延喜式」神名帳
によると名神大社で月次祭・新嘗祭の奉幣社。
神階は「三代実録」貞観元年(八五九)正月二七日
条で他の伊太祁曾二神とともに従四位下に昇叙
され、「紀伊国神名帳」には「従四位上大屋大神」
と記される。 「紀伊国名所図会」は寛治二年(一○八八)の堀 河天皇の熊野行幸の際に奉幣がなされ、次いで 長治元年(一一○四)にも神田一八町・社地五町四 面が寄付されたと伝える。その後の戦乱で衰微 したらしいが、「続風土記」は寛文記に近古まで 神田二町があったというと記し、社の近辺高五 ○○石ほどの地を字「神の木」とよぴ、往昔、森 が広大であったことが知られると述べている。 また「紀伊国名所図会」は四時の祭礼として、三 月一六日・四月卯日・六月一日・九月二一日・一○ 月未日・二月一六日をあげる。「続風土記」に よると、このうち六月と九月の祭礼には流鏑馬・ 猿田楽が催され、一○月の祭礼には伊太祁曾神 社(現和歌山市)の社人によって小豆飯・酒・魚など が供えられ、三月の祭礼には伊太祁曾神社か らの渡御があった。現在の例祭は一○月一四日。 −『大和・紀伊 寺院神社大事典』− |
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