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式内社 豊後國大分郡 西寒多神社(大) 旧村社 八幡大神(筥崎八幡神) 合祀 軻遇突智命,迦具土神,少彦名命,伊邪那美命,菅原神 |
| 『太宰管内志』には延喜式に大野郡西寒多神社
あり、とあり。『亀山随筆』には西寒多紳杜は初大野郡野
津ノ荘寒田村にあつたのを傅へによると、大友能直十世ノ
孫式部大輔親世、応永七年、将軍義満により従四位下九州
節度便に補せられたとき、応永十年三月この神社を、居城
の南に移して、この地を寒田と名づけたとある。その後大
野郡寒田の方は衰へ、今は祭日の定めもなく、神官なども
絶え、僅かに一茅宇が残るだけになつたとある。しかし
〔稲生云〕として大野郡西寒田神社は社を再興して、鳥居
廻廊などを建立したとある。『豊後國志』も大野郡寒田神
社を西寒多神社とし、応永十五年大友親世が大分郡植田に
移し寒田と名づけた。とあり、今は一茅宇になつてゐると
ある。「社格昇進願」によると、延喜式などにふれ、中世
社運が衰へたが、江戸時代臼杵藩の崇敬をうけ延享(一七
四四〜八)の頃鶴峰但馬を神職とし、文化九年(一八一二)
白川神紙伯の「鎮國一宮西寒田神社」の社号をうけてゐ
る。この年臼杵藩、十一月十日の祭礼を復し、岡藩等の領
民も参加した。文化十二年社殿の建立を許され、文化十四
年(一八一七)神道長上より「西寒田神社」の社号をうけ
た。文政元年(一八一八)拝殿鳥居廻廊が造営され、以後
祭礼も盛になつたとある。明治六年村社、昭和十五年社格
昇格運動を起したが、成就しなかつた。
−『式内社調査報告』− |