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式内社 大隅國囎唹郡 大穴持神社 旧県社 大己貴命 配祀 少彦名命,大歳命 60号線と10号線の交わるところ。交通量が多い。近隣の住民の手による補修か? |
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大穴持神社 祭神 大己貴命、少彦名命、大歳命 創建年代 宝亀九年(一七七八) この神社は、光仁天皇の時奥州津軽山に鎮座されていた、その後勅命を以って神造島(今の小島)に遷座したが、島くずれのため現在の場所にうつされたと伝えられている。「医療の神」として、また「まむしよけの神」として崇められている。 地元の人たちは普通「おなんじさあ」と呼んでいる。 −境内由緒− 淳仁天皇天平宝字八年(七六四)十二月、続日 本紀は、史上はじめて鹿児島の地名をあげて、そこに一異 変が発生したことを次のように記し、爾後十数年間にわた ってその異変の余波が息まなかったことを追記して、それ が神の仕業であったことを述べている。
是月 西方ニ有リレ馨 似テレ雷非スレ雷ニ 時ニ當テ二大隅薩摩兩國之
堺ニ一 烟雲晦冥 奔電去來ス 七日之後乃天晴ル 於テ二鹿嶋
信尓村之海ニ一 沙石自聚テ 化成ル二三ノ嶋ト一 炎氣露見スル有テ
レ如ナル二冶鑄之爲(シワザ)ノ一形勢相連望メバ似タリ二四阿之屋ニ一 爲メニレ嶋ノ被ル
レ埋メ者 民家六十二區 口八十餘人
また称徳天皇天平神護二年(七六六)六月
己丑 大隅ノ國神造新嶋 震動メ不レ息マ 以テレ故ヲ民多クハ流亡ス 仍テ加フ二賑恤ヲ一
そして最後に光仁天皇宝亀九年(七七八)十二月
甲申 去ヌル神護中ニ 大隅ノ國ノ海中ニ有リテレ神造ルレ嶋ヲ 其ノ名ヲ曰フ二大
穴持神ト一 至テレ是ニ爲ス二官社ト一
以上前後三回にわたる正史の記事から、官社としての大
穴持神社創始の歴史は明らかである。社伝によれば、神社
は初め神造新島のうちの宮州(宮瀬ともいい現在は海面下
にある)というところに鎮座があったというから、宝亀九
年代の官社がそれであったことは凡そ察しがつく。ところ
で『三国名勝図会』に「延喜五年正月、社司谷口某が呈状
に、初め社は宮洲に在りて神体は石像なりとあり、今木坐
像なり、其宮洲は今の社地を距ること午方八町許りの海中
にあり、前に出せる神造三嶼の一、後海に没れ、潮退時は
徒渉すべしといへるもの是なり」とある記事を参酌するな
ら、延喜五年(九○五)正月当時はすでに宮州は海面下に
没していたともとれる。したがってこの年の八月に詔命が
下って延喜式の編纂がはじめられたというのが事実なら
ば、その時点で集録された神名帳所載の本社の所在は、さ
きの宮州からの移転先となった恐らく現在の場所が記され
たものであらう。そこはいはゆる神造三島と考えられてい
る今の隼人町辺田小島・沖小島・弁天島とは僅かに郡界の
ちがいで国分市(古囎唹郡)に編入されている小村(『鹿
児島県神名牒』は「小村」といえるも神村なるべしと云っ
ている)の海岸に面する景勝の地で、神造三島はそこから
西南方向約三キロの海上にある。ところで本社の由緒について『神社佛閣帳』は別に説を立 てて、「右大明神ハ昔奥州津軽山ヘ鎮座候處爲西國守護神 下向可有旨勅命ヲ以常洲込江庄□□氏宮永家上下□拾五人 ニテ神廟ヲ守護シ罷下リ日州串良島沖ニテ荒ク候ヘ共神 寄特共ニテ串島ヘ御着船其地串島ノ守護野邊氏ノ人ヲ頼十 七日滞留夫ヨリ福島ヘ御着……敷根ヨリ船ニテ隅州福瀬之 渡ニ着船ノ時越保元年辛丑三月五日ニテ候福島村へ假殿出 來其後小村ヘ本宮作有之祭田過分ニ相付大宮司ヘ大屋敷着 被下由申傅候云々」など細かな道中記を記して越保元年辛 丑三月五日到着、はじめ福島村の假殿に入り、その後小村 の本宮に入ったものであると伝えている。『神社撰集』は この異説について「越保ノ年號不及聞又此時西國ノ守護神 少キ故以勅命西國ノ鎮守トノ御下向ト記タル事甚非ナルへ シ云々」と批判してゐる。明治四年五月縣社に列す。 −『式内社調査報告』− |