とかみ
長崎県壱岐市芦辺町湯岳本村触
壱岐の芦辺町にある。はずなのだが、
残念ながら正確な位置は分からない。
農道らしい快適な道を、周囲の風景を楽しみながら走行していたら、
バックミラーに、なんとも風情のある鳥居が写ったので、立ち寄った神社。
神社参拝旅行の途中に、ふと立ち寄る神社はかなり多いのだが、
そのほとんどは、由緒などがわからないし、社名すら判読できない神社もある。
当社は、幸運にも『式内社の研究』に記載されており、
式内社として取り上げても良いと判断。ということで、珍しく掲載することにした。
道路わきに、古い鳥居があり、すぐに階段。
階段上が境内であるが、それほど広くはない。
ただ、周囲の瑞々しい木々に守られた様相は、ちょっと感動的だった。
あたりには民家はない。
妙見宮とも呼ばれていた神社だが、
塗神(とかみ)というのが本来のようだ。
『芦辺町史』には、延宝4年の橘三喜の式社査定以前は、式内であったという。
また、『壱岐神社誌』では、延喜式には、社名・覩上神社を見上神社と誤記され
そのために、式社査定で式外にされてしまったとも。
この「見上」の記述は、あきらかに『壱岐神社誌』の誤記で、
角上神社と間違えられたというのが正しい。
鎮座の伝承はいくつもあるようだが、一説には、当初、山上に出現した神だが、
祭祀の不便から、麓に社殿を造営し、これを祀ったもの。
橘三喜の式社査定の頃には、山上に社がなかったため、
これを造営し、式内としたという。
すると、山上の角上が、本来地であり、
山腹にある当社が、正統な後継と考えられるだろう。
神紋は存在しないのかもしれないが、
社殿には、丸に三星が付いていた。
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覩上神社
| 位置 | 芦辺町湯岳本村触 |
| 祭神 | 素盞嗚尊、奇稲田姫命、大己貴命 |
| 由緒 |
『神社明細帖』に「覩上神社、旧平戸藩崇敬十七社ノ一也、但式外氏子アリ」「社地二反八畝二十一歩、
無税。造営白銀五枚旧平戸藩寄附、氏子民費」「摂社中辻神社、末社神石神社、八皇子神社」、『壱岐国神社田
畑帳』に「妙見宮、宗廟、社領高七斗三舛祭米四舛四合、定祭九月廿六日御代参有」と記されている。
寛永十四年(一六三七)四月松浦隆信、忠生押字の棟札に「龔奉再興妙見宮御宝殿壱宇」また、慶安二年(一六
四九)九月松浦鎮信押字の棟札に「龔奉再興湯岳村山方村妙見宮御宝殿一宇」と見えるように、当社は「妙見宮」とも呼ば
れている。そうして、「妙見宮小神改正以前ハ式内」(『神明記』)であったが、延宝四年(一六七六)の調査により
式外と定められたのである。このことについて、『壱岐神社誌』も『当社創建当初にありては「とかみ山」鎮座
覩上神社として延喜式に登録せられしが過りて見上神社と誤記せられ給ひしも事実は「とかみ神社」として「と
かみの辻」「とかめ河」などと共に存在し、中古両部習合説に胚胎し又は温泉湧出の関係等によりて妙見宮と称
せられしも従来国主が十七社の一として崇敬し造営毎に白銀五枚を寄進せし事などに徴し且つは延宝以前「とが
み神社」を塗神と称せし等の事実によりて知る事を得ぺし。然るに彼延宝四年査定の時橘三喜が思ひを茲に致さ
ず社号の研討をなさずして軽々に式外と査定し去りしは遣憾に堪へず』と述ぺている。
鎮座については諸説があるようである。『神社帳』に「住吉長宇土に出現坐而後今之社地奉遷」とされる
が、『続風士記』は更に詳しく「当社はしめハ那珂郷の農長の向の山中にましましかど神木の落葉をとるといへ
ともはなはだとがめ給ひければ住吉邑の坪見といふ処に捨奉る其里人社を立これをまつる其捨奉るものの子孫断絶すされとも住吉
邑にをいてもつよくとかめ給ひけれハ上山信の白岩といふ処にすて奉る其里人社を立これをまつる其後今の社地
にうつしたてまつるともまたすみよしのうち長宇土にあらハれましまして今の社地にうつり給へりとも又はしめ
住吉の長宇土に顕れましまし中葉上山信白岩に移り給ひて近世今の社地に宮柱太敷立とゝまりましますともいふ
今白岩の社地を古妙見といふ」さらに、『名勝図誌』は「当社ハむかし覩城築城の時、城域鎮護のため祭鎮りし社なりとも。又一
云、素神、大己責命を悪魔除伏、疫癘防禦のため此地に祭鎮しと」などと記している。
明治九年(一八七六)十二月に村社となり、大正二年(一九一三)十一月神饌幣帛料供進神社に指定された。例
祭は十月二十六日。
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−『芦辺町史』−
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