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長幡部神社
ながはたべじんじゃ
茨城県常陸太田市幡町字明神森539  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ巴

式内社 常陸國久慈郡 長幡部神社
旧郷社

御祭神
綺日女命 多弖命

茨城県常陸太田市にある。
常陸太田駅の東2Kmほどの幡町に鎮座。

切り通しのような狭い階段を登ると鳥居があり、参道は右折。
参道の中ほどにも鳥居が立ち、その奥が境内。

往時は、水戸藩へ木材を供出していただけあって、
周囲には木々が多く、雨上がりのためか、
実に瑞々しい神域だった。

本殿は神明造の屋根に銅板を葺いて、
むりやり流造風にしたような印象だ。

常陸国風土記に「長幡部之社」と記されている神社。
時代により、社号が変わり、
小幡足明神、駒形明神、四所明神、鹿島明神とも呼ばれていたが、
延享年中に、古名に復したという。

常陸国風土記によると、祭神・綺日女命は天孫降臨に従い、
後、日向から美濃(三野)へ移り、
崇神天皇の御代に、長幡部遠祖・多弖命が、
美濃から久慈の当地へ遷したという。
当社は、優れた絁(太織りの紬か?)を織る長幡部の祖神を祀る神社。
同じく織物の神を祀る、倭文神社(日本の古代布)などとは別の系統に属すようだ。

現在の祭神は、風土記から、綺日女命と多弖命となっているが、
江戸時代には、社名・長幡部から、大幡主命としたこともあった。
また、美濃から遷ってきたことから、
三野国本巣国造長幡部連の祖である、神大根王とする説もある。
多弖命の文字が、多尼命の誤字で、「おおね」に通じるとも。

北西700mほどに元宮と呼ばれる旧社地があるらしい。
また、本殿の東50mに神座(かみくら)と呼ばれる石があるらしいが、
参拝時には知らなかったので、どちらも見ていない。

境内には小さな祠が散在し、それぞれに名前が付いていた。
確認したものは、雷神社、鷺森神社、浅間神社、羽黒神社、愛宕神社、
熊野神社、阿夫利神社、稲荷神社、天満宮、七福神、足尾神社。

社殿には三つ巴の紋章。


鳥居

参道

社号標

参道鳥居

参道

社殿

社殿

境内横の林

本殿

境内横の林

雷神社

鷺森神社

浅間神社、羽黒神社

愛宕神社

熊野神社

阿夫利神社

稲荷神社

天満宮

七福神

足尾神社

延喜
式内
長幡部神社御由緒
御祭神綺日女命、多弖命
御由緒
今より一二〇〇年以前に上られた常陸風土記に次の如く記されて居る。
『郡の東七里、太田郷に長幡部の社あり。古老の曰へらく、珠売美 萬命、天より降りましし時、御服を織らむ為に、従ひて降りし神の 御名は、綺日女命、本は筑紫國の日向の二神の峰より、三野國の引津 根の丘に至りき、後、美麻貴天皇(崇神天皇)の世に及び、長幡部の 遠祖多弖命、三野より避りて、久慈に遷り、機殿を造り立てて、初の て織りき、其の織れる服、自ら衣裳と成り、更に裁ち縫ふこと無し。 之を内幡と謂ふ、或は曰へらく、絁を織る時に当りて、輙く人の見 るが為に、故れ、屋の扉を閉ぢ、内を闇くして、織る、因りて烏織 と名づく。強兵、利剱も、裁ち断ることを得ず。今、年毎に、別に 神調として獻納れり』
と、誠に御由緒深き古社である。
即ち長幡とは、絁の名にして、これを織り作るものを長幡部という。
御祭神の子孫が、その遠祖を祀ったのが当社である。
延喜の制式内に列し、常陸二十八社の一なり。神階は仁寿三年 正六位上、明応十年正三位を進めらる。
中世以降、小幡足明神 又駒形明神と称す。康平中源頼義北征に際し 戎旗一旗を献じ、以て戦勝を祈る。凱旋に及び、社地に鹿島、三島、神明、 若宮八幡の四所を祭り、四所明神とした。後、四所明神盛大になり、遂に 社号を失い、鹿島明神とのみ称え、延享年間に至り、故老の口碑に依 って旧社号に、復活したと云う。水戸藩 特に木材を進め、その用に 供す。殊に斉昭公深く敬し、弓矢刀剣の奉納あり。神社の北五町許り の処に旧宮跡ありて、神輿出社の際は必ず安置す。
明治五年、郷社に列格。
斯くて、当神社は、今関東に広がる名声高き結城紬を始め絁織物の 原点の御社であり、機業の祖神と仰がれる所以でも
祭祀
元旦祭 一月一日、祈年祭 二月二十日、例祭 四月九日、 秋祭 旧九月二十九日、新嘗祭 十一月三十日

−境内案内より−


長幡部神社由緒
御祭神 綺日女命。多弖命
新編常陸国誌に「久慈郡太田郷幡村ニアリ二十八社考・郡郷考・蓋長幡部遠祖綺日女命・多弖命ヲ祭ル」とあり、皇孫瓊瓊杵尊天降りの時、御服を織られるため、機具を携えて御供した神に綺日女命あり、本は筑紫の日向の二神の峰より、三野国の引津根の丘に至られた。後、崇神朝に及び其の子孫多弖命、三野より常陸に移り、此地に機殿を建て長幡を織られた。長幡とは絁の名にて之れを織作るものを長幡部と云い、以前の倭文織よりも美しく丈夫であったので、後に及ぶまで神調として奉った。即ち御祭神の子孫がその遠祖を祭ったのが当社である。今関東一円に広がる名声高き機業は実にわが御祭神の流れを伝えるものと云えます。
神階は仁寿元年正六位上、明応十年正三位を進めらる。延喜式内久慈郡七座の一。常陸二十八社の一で、式内小社である。神社の北五町ばかりの処に旧宮跡ありて、神輿出社の際は必ず安置す。
中世以降小幡足明神と云い、後駒形明神と尊称、康平年間、源頼義奥州征討の際、当社に戎旗一旗を奉献して戦勝を祈念し、凱旋に及び、社地に鹿島、三島、明神、若宮八幡の四所を祭り、四所明神とした。後四所明神盛大となり、遂に社号を失い鹿島明神とのみ称えて居ったが、延享年間に至り故老の口碑に依って旧社号に復活したと云う。正月七日間の祭礼、四月九日水木浜へ神幸あり、水戸藩代々の崇敬厚く、その祠宇の造営には常にその材を進め、殊に斎昭公深く敬し、弓矢刀剣の奉納あり、除税地四石八斗八合、明治六年郷社に列格、同四十年四月十日(第百七八号)供進指定。昭和二十七年六月十四日宗教法人設立(常陸風土記、延喜式、常陸二十八社考、新編常陸国誌略録誌)

−『平成祭データ』−



【 長幡部神社 (常陸太田市) 】

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