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木幡神社
きばたじんじゃ
[栃木旅行] 栃木県矢板市木幡1194  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ巴

旧郷社

御祭神
正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊
配祀 事代主命 田心姫命 大己貴命

栃木県矢板市にある。
宇都宮線・矢板の南2Kmほどの木幡に鎮座。
30号線の木幡交差点から東へ入ると境内入口の赤い鳥居が立っている。

小さな丘の境内は南向き。
参道入口は、さらに南100mほどの場所にあり
参道入口には、冠木門が立っている。
冠木鳥居とでも呼べばよいのだろうか、
二本の柱に貫を通した形式の門のような鳥居。
その脇には「國寶 重要文化財 木幡神社参道 入口」と刻まれた石碑。

境内入口の朱の鳥居近くには「木幡神社」と刻まれた社号標。
鳥居扁額には「鹽谷惣社大明神」とある。

鳥居をくぐると、左手に湯殿山、熊野三神、易體山などの石碑。
階段を上ると、室町時代の建立された重要文化財の楼門。

楼門をくぐると、参道の右手に市指定有形文化財の鉄灯籠。
元和三年(1617)松平土佐守藤原忠義が日光東照宮に寄進したもの。
東照宮と関係深い当社へ移されたようだが
損壊部や亀裂があり、平成十三年補修修理したらしい。

ただ、参拝は東日本大震災から2カ月後で、
補修された鉄灯籠は、残念ながら壊れていた。

参道左手に手水舎は社務所が並び、参道正面に当社の社殿。
入母屋造の拝殿の後方には、これも室町時代の重要文化財・本殿。
楼門と同じく朱に塗られていた、鮮やかで美しい。

境内の右手に、縁起を刻した石碑があるが、良く読めなかった。
その石碑の後方の崖が崩れていて、幾つかの石柱が並んでいたが
何か意味があるのだろうか。気になったが調べていない。

社伝によると、桓武天皇延暦年間、
坂上田村麻呂在京の時、山城国宇治郡許波多神社(木幡神社)を信奉。
延暦十年、大伴弟麿らと蝦夷追討の命を受け
許波多神社に参詣し追討の成功を祈願し、
成功の後には一祠建立を誓った。

後、下野国鹽谷郡峯村に陣を設け、
遠江国の高島信保・信房兄弟を従えて追討に成功。
延暦十四年、田村麻呂凱旋の折りに、
当地に当社を創建し、山城国より木幡神を勧請したという。
この時より、峯村は木幡村と称するようになった。

平城天皇大同二年、現在地に遷座し、
従者であった高島信房を神主とした。

「木幡」の読みは、地名も社名も「きばた」と読むが、
勧請元の許波多は「こはた」と読み、
『明治神社誌料』には「こばた」の記されている。

当社には、田村麻呂の面を刻んだ赤鶴面が納められているらしく、
旱魃の時に、当社の辰己の方にある内川の渕に
その赤鶴面を浸せば、必ず雨が降るという。

大同二年の遷座以前は境林にあったらしく
境林は、ちょうど当社の辰己(東南)、内川の近くだ。

朱雀天皇の天慶三年、藤原秀郷が将門討伐の時、
宇都宮神社と当社に祈願し、将門を討った後に
宇都宮神社に勲一等を、当社に社領千石を寄進した。

後冷泉天皇の永承六年、
八幡太郎義家の陸奥追討の時、当社に祈願。

後鳥羽天皇建久四年四月、
源頼朝が那須へ狩りに出た時、
国中に狂犬が発生し、人々を苦しめ、
頼朝が連れてきた犬の狂犬となった。
この時、当社社頭の瑞垣にこの犬を繋ぎ、
人々の苦を救わんと祈ったところ霊験があり、
以後、病犬除けの神として崇敬された。

参道入口の冠木鳥居の近くに、比較的大きな社殿があるが境内社だろうか。

境内の本殿左手には稲荷大明神の祠。
本殿後方に、枯れることが無いと言われる無尽水。
無尽水の上に、大國主神の石碑。
本殿後方に、もう一つの境内社があるが、社名は未確認。

以前は、多くの境内社があったらしく、
『明治神社誌料』には、厳島神社、八雲神社、稚木神社、
鹿島神社、香取神社、春日神社、安房神社、大宮神社、
高龗神社、加太神社、諏訪神社、稲荷神社、
八幡宮、白山神社の名前が載っている。
ひょっとすると僕が見逃しただけかもしれないが。

冠木鳥居や社殿のあちこちに三つ巴紋が付けられていたので
三つ巴が当社の神紋だと思う。


参道入口に冠木鳥居

参道の境内社か

社域

境内入口の神々

境内入口の鳥居

参道階段上に楼門

境内から楼門

境内

拝殿

鉄灯籠

本殿

拝殿

稲荷大明神

大国主神

無尽水

境内社

由緒碑

背後の崖

木幡神社 由緒
桓武天皇延暦年間、坂上田村麻呂在京の砌り故有りて山城国宇治郡許波多神社を信ずる事年久し。同十辛未年大伴弟磨等と蝦夷追討の命を蒙る。因って彼の社に参詣し追討の功顕はさば一社を建立し奉らんことを祈誓す。進んで下野国塩谷郡峯村の地(現在神社の裏側の地)に宿陣す、遠江国住人高島信保信房兄弟も又従って功あり。
同十四乙亥年田村麻呂凱旋の砌り再び此の村に陣する。地形、四神相応するを見此の地神慮にも叶うべく宿願を果すは此の地なりと思い、遂に峯村の地へ本社を建立し、山城国許波多神社を遷す。困って峯村を改め木幡村と為す。
平城天皇大同弐年今の地に遷して新たに建立す。又田村麻呂東夷の面を彫刻し赤鶴の面と号す、之を当神社へ奉納する。旱魃の時本社より辰巳の方内川淵と言う淵に、この面を浸すときは西山忽然と雲を起し雨を降らす故に旱魃の時は今に於ても遠近の村々から降面を乞祈う者多し。
その後朱雀天皇の御宇、天慶参年当国の大椽藤原秀郷、平貞盛と将門を誅罰する砌り宇都宮神社及び当社へ朝敵征伐の祈願を祈請し給い速かに将門を誅伐す。此の事宣伝し遂に時の朝廷に聞達し宇都宮神社へ勲一等を賜わり当神社へ社領一千石を寄進せらる。この故を以って今に至るも宇都宮神社と当神社と遊行の神事とて十一月より十二月中子午の日麻芋を蹟まず針機を禁ず。
その後御冷泉天皇御宇永承六年六月鎮守府将軍源頼義その子八幡太郎義家朝命を蒙り奥賊安部貞任追討の時当社より十有八町東なる玉取と言う所に宿陣し折、従者加藤景通・藤原頼茂・清原貞広等を召集し当社へ一週間の散斎致斎祈誓す神威空しからず安部一族を悉く討滅し得る右陣所の跡は八幡太郎旗掛の松とて今に現存す。その後御鳥羽天皇建久四年四月頼朝、那須野の原に狩せんとするとき村里狂犬起り民大いに苦しむ右府の率連れ来る処の狩犬も狂犬となる。右府大いにこれを患い彼の犬をして社頭瑞籬に繁ぎ丹精抽して四民の難を救わんことを祈誓する。その赤心神に感応し給うや狂犬忽ち平癒す村里の狂犬も亦順々治る。四民始めて安堵す此の故を以って今に至るまで病犬除けの神霊爾を出すはこの縁由なり。
天正十八年豊臣秀吉に社領を没収されて以来一時衰退したもようであるが徳川時代に入り、爾後徳川家光当社を崇敬ありて慶安元年八月十七日当村内に於いて朱印地弐百石を寄進し、又日光二荒山神社を相殿に祭りこの時より日光法宮の持となり後明和四亥年二月輪王寺宮執泰同十一月四日勅宣を以って神位正一位を賜う。朱印地弐百石は明治維新に至るまで徳川将軍代々寄進せられた。
斯の如く武門武将の崇敬殊に篤く明治参年社格御制定の際郷社に加列せられ明治四十年十月神饌弊社帛料供進神社に指定せられ本社及楼門は明治四十一年八月特別保護建造物に指定さる。
文化財保護法施行に伴い昭和二十五年八月二十九日附を以って重要文化財に指定せられた。

−『平成祭データ』(原文ママ)−



最終更新日:2014/08/14
【 木幡神社 (矢板市) 】

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