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桑原神社
くわはらじんじゃ
茨城県常総市国生1186  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ巴

式内社 下總國岡田郡 桑原神社
旧郷社

御祭神
豊城入彦命 天熊人 稚彦命 大山咋命
天熊大人命 配祀 稚彦命 『平成祭データ』
天熊大人命 稚彦命 猿田彦命 大山咋命 『明治神社誌料』

茨城県常総市にある。
関東鉄道・石下駅の北西3Kmほどの国生に鎮座。
24号線を西へ進み、鬼怒川にかかる石下橋を渡って1Kmほどで
136号線へ入って北上し2Kmほどの場所、
136号線に西側に境内がある。

境内そのものは南向きで、136号線から入ることができるが
参道入口は西側にあるので、入口までまわって参拝開始。

境内入口には「延喜式内 郷社桑原神社」と刻まれた社号標が建っており、
鳥居をくぐると、樹木が鬱蒼と茂る参道。

参拝日は、あいにくの雨でやや暗かったのだが、
靄のようなものが立ちこめて、若干の幽玄さを味わいながら
100m弱の参道を歩くと、アスファルトで固められた明るい境内に到着する。

境内の右手には農村集落センターの建物があり、
参道右手に手水舎。
参道の正面に、瓦葺入母屋造平入りの拝殿があり、
拝殿の後方に、瓦葺入母屋造妻入りの本殿。
『式内社調査報告』には、本殿は流造とあるので
本殿は、瓦葺の建物の中に納められているのだろう。

境内の案内によると、拝殿・本殿ともに
昭和六十三年に改築されたようで、以前は瓦葺では無かったようだ。

社号の「桑原」は、資料によって「くわはら」「くわばら」と訓が付けられている。

創祀年代は不詳。

社伝によると宝亀三年(772)三月、
当地を開拓した下総国司従四位下桑原王が
その祖神を、守護神として祀ったのが起源。

ただし、桑原王は宝亀二年には上総守であるので
この説は疑問視されている。

境内案内には、桑原王の祖・豊城入彦命、天熊人を祭神としているが
他の資料では、主祭神は天熊人(天熊大人命)となっている。
『式内社調査報告』では、上毛野君の同族・桑原臣の一派が東国に下り
その祖・豊城入彦命を祀ったのではないかと記されている。

当初は、現在地の東方、鬼怒川を見渡す本屋敷という台地に鎮座していたが
住民居住区の移動に伴い、延宝六年(1678)現在地に遷座したという。

式内社・桑原神社に比定されている古社だが、
中世には、当社の伝承が失われ、
正徳年中には香取神社と思われていたようだが
享保四年(1719)本殿建替えの際に、
寛永二年(1625)の棟札が発見され、
桑原神社と復号されたという。

明治の社格において郷社に列し、
明治四十二年二月、日枝神社と佐田彦神社を合祀した。

当社の特色として興味深いのは
昔から社家・社僧・祝などが存在せず、
農家、つまり村によって維持管理されていたらしい。

拝殿の屋根や賽銭箱に三巴紋が付けられている。

参道の突き当り、境内入口に石碑の香取社が祀られている。
当社は、以前は香取社と称したので、その名残かも知れない。

境内社は社殿の左右に整理されて並べられており、
社殿右手に、石祠の大杉社、4つの石祠の四社宮。
左手には、石碑と青面金剛の庚申社、
さらに石祠の稲荷、日枝、天神、八坂、八幡、愛宕、その他の境内社が並んでいる。


境内入口

参道

境内

本殿

拝殿

四社宮、大杉社

香取社

庚申社

その他の境内社

当社は下総国司従四位桑原王が、この地を開拓のさい里人を率先し、宝亀三年三月里の 総鎮守神として創祀鎮齋。始め鬼怒川の右岸に御鎮座しておつたのを、延宝六年現神地 に奉遷した。中世戦乱や世変のため伝を失い、香取神社と思われていたが、享保年中棟 札によって延喜式神明帳に下総国岡田郡一座小 桑原神社と知ったと伝う。(鎌倉時代 の板碑十数枚現存す) 明治六年岡田・豊田両郡の総社と定められ、郷社に列格。同四十年五月十三日(第二三 四号)供進指定。昭和二十七年八月十八日宗教法人設立。

−『平成祭データ』−




桑原大明神
延喜式内社
 宝亀三年(七七二)三月、名国守下総守 従五位下桑原王の創祀になり、祭神は王の祖 豊城入彦命と天熊人、稚彦命及び大山咋命で、 開拓荘園の守護並びに治水と五穀の豊饒を  祈願せしものである。
 この神社の始め、平将門公の父従四位下鎮 守府将軍平良持公が昌泰年間(八九八−九〇一) 頃から下総国亭(庁)を置いて政治を行った 東方の台地、鬼怒川右岸畔谷岸古明神の地に 在り、下総、豊田開発の祖神として両公の 尊崇するところ並々ならず、爾来坂東農耕の 守護神として崇拝されて来たが、延宝六年 (一六七八)在地住民の移居に伴い此の地に 奉遷され、豊田、岡田両郡の郷社として近世 に至った。
 別当は不動院で、明治四十二年(一九〇九) 二月、日枝神社及び佐田彦神社を合祀し、 婦人臨産の際大明神を信仰すれば難産の患な しと云われる。

−社頭案内板より−




桑原神社由来
 これより東方、国生字本屋敷は、往古より、悠々 と流れる鬼怒川を眼下に望む台地にあった。この地 は、古墳時代の前期に、既に大きな居館があった。 貝塚あり、前方後円墳あり、竪穴式住居あり、又、 江戸時代の住居の所在も遺跡等から明らかにされた。 古くは約一六〇〇年の昔から、時に大きな館敷地 として、郡役所として、又、村人の居住集落として 使われたことが窺いしれる。
 続日本紀によれば、下総の国司であった桑原王は、 宝亀三年(七七二年)に、この地(本屋敷)に桑原 神社(古明神)を創祀する。社記の祭神は、王の祖 である豊城入彦命、天熊人、稚彦命及び大山咋命で 開拓荘園の守護並びに治水と五穀豊穣を祈願せしも のである。すなわち、桑原王は農神をこの地に奉祀 し、未開拓の東国に衣食の恩恵を知らしめ、農業発 展の守護神としたものであろう。延喜年間(九〇二 年〜九二二年)、従四位下鎮守府将軍平良将、将門 父子も、国亭をこの地に置き政治を行い、下総豊田 開発の祖神として尊崇す。爾来、坂東農耕の守護神 として崇拝さる。
 時は流れ、江戸時代、現在地、畑地なるも、居住 地たる本屋敷、作物の収穫大なるを知り、国生の集 落は、次第に西へ移り、延宝六年(一六七八年)、 本神社を奉遷す。その後、正徳二年(一七一二年) に正一位の昇格申請したるも、古棟牌等不明の為香 取社として許可さる。享保四年(一七一九年)本殿 建替えとなり、寛永二年(一六二五年)の棟牌(日 本国関東下総国生桑原大明神造立一宇攸)を発見、 この棟牌を役所に届ける。これより四十年後の宝暦 八年(一七五八年)、当時の寺社奉行阿部伊予守よ り呼び出しがあり、延喜式内、桑原神社を証明する 書状が名主に下付さる。大いに感激した氏子たちは 法楽を奉納した。本神社、別当不動院とも、時には 五穀豊穣、安産祈願の対象として、又、民衆の憩い の場として、盆踊りや祭礼が行われ、生活の中に深 く根ざしていった。
 ここに、本殿並びに拝殿改築にあたり、はるか千 数百年の時の流れを回顧し、先人の偉業をたたえ、 本神社の由来を表記する。

−昭和六十三年十一月の境内由来石碑より−



【 桑原神社 (常総市) 】

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