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子持神社
こもちじんじゃ
群馬県渋川市中郷2910  Zenrin Data Com Maps display !!


十六菊花

旧郷社

御祭神
木花開耶姫命
配祀
迩迩藝命 猿田彦大神 蛭子命 天鈿女命
大山祇神 大己貴命 手力雄命 須佐之男命
本山奥宮 倭建命

群馬県渋川市にある。
渋川駅の北9Kmほどの中郷に鎮座。
子持山(1296m)の南麓、参道入口の大鳥居から1.1Kmほど北上すると、
狭い車道の西側に境内がある。
また、本社からさらに2Kmほど登った子持山の中腹の岩の窪みに奥宮が鎮座。

下の大鳥居の写真は朝日を受けて輝いているけど、
到着した時は夜明け前でまだ真っ暗だったので、
とりあえず、奥宮まで車で登ってみた。


参道入口の大鳥居

狭い車道をゆっくりと登って行くと、ヘッドライトの先に鹿のような動物が慌てて逃げて行く。
車道の突き当たりに車を停められる場所があり、子持山への登山口になっている。
しばらく車の中で待ち、明るくなって来た頃に参拝開始。
と思ったら熊出没の注意書きがあったので、あわてて車に常備している熊除けの鈴を腰に付けた。
登山口から少し入った場所に屏風岩という巨大な岩があり、
小さな鳥居が立っていた。
登山道をさらに登ってみようかとも思ったが、
登山が目的ではないし、熊が出ると嫌なので止めた。

車を停めた場所から少し下ると、車道の脇に赤い鳥居の奥宮がある。
社殿は斜面の上の方、岩の窪みにある。
赤い社殿の下に薪が積まれていたが、火を用いる神事でもあるのだろうか。


屏風岩

クマ出没注意

登山道わきに屏風岩

奥宮

奥宮鳥居

奥宮境内

奥宮境内

奥宮社殿

奥宮社殿

奥宮への参拝を終え、車道を下って本社へ戻り、車道脇に車を停めて参拝を開始。
参道を進むと「子持神社」と刻まれた社号標。
さらに進むと赤い鳥居が立っており、参道左手に手水舎がある。

境内は広く静か。
境内左手に神楽殿があるが、例祭日には神楽が奉納されるらしい。
拝殿は銅板葺入母屋造平入りで、後方の本殿は神明造と流造を足したような形状。
社頭の由緒書によると昭和31年に再建されたものらしい。

本殿の右手に、御足形のある石が置かれている。
昔、当社が火災で焼けた時、御祭神が奥宮へ避難した際に
ついた足形だと伝えられているようだ。
ちゃんと五本指の跡まで残っていて面白い。

境内左手には、1860年建立の万葉歌碑があり、
児毛知夜麻和影嘉平留氐能(こもちやまわかかへるての)
毛美都麻氐宿毛等知波毛(もみつまて ねもとわはも)
布汝波安杼加毛布(ふなはあどかもふ)
と万葉仮名で刻まれており、「子持山若楓の紅葉まで 寝もと吾は思ふ汝はあどか思ふ」と読む。
子持山は万葉集にも歌われた有名な地だったようだ。

創祀年代は不詳。
一説には崇神天皇の御代とも、嵯峨天皇の御代とも伝えられる古社で、
上野国神名帳に「従五位上兒持明神」とある神社。
また、日本武尊が東征のおり、木花開耶姫命他七柱を祀ったとも。

南北朝時代の貞治六年(1367)奥宮の地に本社を再建。
室町時代の享禄年間(1528〜1532)、上杉民部太夫(上杉憲顕)によって
麓の現社地に遷座され、国家鎮護、子育て・安産の守護神として崇敬されたという。

上杉、北条、武田などの武家の崇敬篤く、徳川幕府により朱印地二十石を賜った。
明治維新後、明治五年十一月郷社に列した。

現在の主祭神は木花開耶姫命で、他に八柱の神々を祀り、奥宮には日本武尊を祀っている。
ただし、『明治神社誌料』には、木花開耶姫命の他に磐筒之女命を祭神とし
由来は不明だが、古来より相殿(合坐)に祀られていると記されており、
さらに『上野國志』に「倉橋宮天皇安閑天皇磐筒女大神鎮座」とあるらしい。
当初の鎮座地である奥宮は岩の窪みにあり、周囲にも屏風岩などの巨石が多いので、
本来の祭神は磐筒之女命か、あるいは木花開耶姫命の姉神・磐長姫命なのかもしれない。
また、『山吹日記』には大己貴命を祀るとも記されているらしい。


『神道集』の「児持山大明神の事」には、児持山大明神は天武天皇の御代に、
伊勢国度会郡から荒人神として出現し、上野国群馬郡白井の神となったとあり、以下の記述がある。

伊勢の阿野津の地頭・阿野権守保明夫婦には子が出来ず、伊勢大神宮に祈願したところ
児守明神にお願いすると良いという指示があり、七日間の参籠の後、鏡のように美しい姫を得た。
父母は大喜びして児持御前と名付け大事に育てていたが、母が亡くなった。

のち父・保明は伊賀の国鈴鹿郡の地頭・加若大夫和利の姫君と再婚。
成長した児持御前は、継母の弟である加若次郎和理と恋仲になり結ばれる。

若夫婦で伊勢大神宮へ参詣したおりに美しい児持御前に横恋慕した伊勢国司・在間中将基成は
夫の和理に謀反の罪を着せ、捕えて下野国の室の八島へ幽閉。
継母は児持御前を甥にあたる上野国の目代である成次のもとへ送り出す。

児持御前は、上野へ向かう途中、熱田神宮のそばの小さな家に世話になり、そこで若君を産む。
東山道の不破の関で一人の侍と出会い、事情を聞いた侍は旅の伴となる。
また、木曽でもう一人の侍も伴となって無事上野国の成次の家に到着。

下野国へ、和理の様子を見に行く成次に二人の侍も付き添い、
そこで、二人の侍は神通力を発揮して和理を救出し宇都宮へ逃げる。
宇都宮の河原崎で別の侍が出てきて、二人の侍となにやら相談し、
成次、和理をともなって無事上野国に帰りついた。

不思議に思った和理は、侍たちに素性を訪ねると、
三人は熱田大明神、諏訪大明神、宇都宮大明神であると告げ、
児持御前に神道の法を授け、児持御前は児持大明神となった。
また、夫・和理や成次、若君や旅の途次に世話になった人々にも法を授け、
それぞれ神となったという話。

『上毛国風土記』には、児持山七社として子持山周辺の神々
「半牛木・烏頭・和利・笆生・白唐馬・駒形・山代」の名が記されているが、
その神々が児持御前に関った人々ということだろう。

さらに『神道集』では、児持御前の父と継母にも神道の法が授けられ
伊勢大神宮荒垣内の津守大明神になり、継母と和理の父母は伊賀国の鈴鹿明神となったとある。

当社の神紋に関して、『全国神社名鑑』には十六菊花とあり
参道入口の大鳥居にも十六菊花の金の飾りが付いていたが
拝殿前の天水桶には十五弁の菊花が付いていた。

境内の奥、御足形の後方には夫婦の道祖神も祀られていた。

境内社が一つあり、傍らには梵字を刻んだ石碑が立っていたが、詳細は確認していない。
『全国神社名鑑』には末社二社とあり、『明治神社誌料』には
大己貴社・大鳥社・諏訪社・稲荷社の名が記されている。


社頭

鳥居

手水舎と参道

境内

神楽殿

社殿

境内社殿

本殿と御足形

拝殿

御足形

御足形

境内社

万葉歌碑

天水桶の菊紋

道祖神

子持神社
 旧郷社で、古くから子授け・安産の守護神として近在の 信仰を集めている。
 神社の創建は崇神とも、嵯峨ともいわれているがわからない。 日本武尊が蝦夷征伐の際、ひそかにこの山にこもって 木花開耶姫命と七柱の大神たちをまって[原文ママ]征伐に出向き、 その加護によって平定の業をとげられたとも言われている。
 「上野国神名帳」には神位従五位上を記されている。また、 中世の唱導文芸として知られる、神道集の「上野国児持山之事」 などの写が残されている。
 上杉氏や小田原北条氏、武田信玄ら諸武将の崇敬を受けて栄え、 徳川幕府より朱印地二十石を賜っていた。
 境内地は約3万3,500平方メートルと広く、古樹大木が茂って 風致に富んでいる。今の神明権現造りの社殿は、昭和31年 (1956)の再建になるものだが、あたりに茂りあう木々と調和して、 渋い美観をただよわせている。
 例祭日は5月1日で太々神楽が奉納され、近在から参拝客でにぎわう。 またこの日が格好のハイキング地として知られる子持山の、山開きともなっている。

−社頭由緒書−



御足形の由緒
子持神社は平安中期本山の岩屋に奉鎮其の後室 町末に上野大守上杉憲顕が現地に御社殿を建て 遷座されたと伝へられますその御社の火災にあ はれた時御祭神が本山の霊地にひなんされた時 御本殿下の敷石につけられたのが此の御足形と 伝えられます

−境内石碑−



【 子持神社 (渋川市) 】

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