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主石神社
ぬしいしじんじゃ
茨城県鉾田市大和田字明神山1028−1  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ巴

式内社 常陸國茨城郡 主石神社
旧村社

御祭神
大山祇命

茨城県鉾田市にある。
鉾田駅から北西へ10Kmほどの大和田に鎮座。
巴川に沿って走る車道の北側に境内がある。
地図で見ると、小学校の近くのようだが、
運転していて小学校には気づかなかった。

境内の東側に、集会場のような建物があるので、
その前のスペースに車を停めて参拝開始。

車道に面した境内入口から階段を上ると鳥居が立ち、
参道の奥に、オレンジ色の拝殿。
拝殿の後方、垣に囲まれて流れ造りの本殿。

境内の左手の丘には、いくつかの小さな石祠が祀られている。
この丘が明神山だろうか。
附近には古墳が散在する土地なので、この丘も古墳なのだろうか。

社伝によれば、欽明天皇の御宇。
村人が、一つの成長する石を発見し祀ったのが当社のはじめ。

『略縁誌』によると、
その石は四〜五尺余りの大きさとなり、光をはなっていたという。
そこへ、老翁が出現し、「吾は大山祇神」と名乗って消失した。
村人は、この石を神と崇め、石上に祠を建てて祀ったという。

貞観や嘉祥に、神階を授与されたという伝承もあるが、
これに関しては、別の見解もある。
三代実録には「鴨大神御子神主玉神」へ従五位上が授けられたと記され、
これを、鴨大神御子神と主玉神に2神への授与とし、
主玉神=主石神(当社)と見るか、
鴨大神御子神主玉神を、岩瀬の鴨大神御子神主玉神社一社と見るかの違い。

境内の案内板には、成長する神石の上に社殿を立てたとあり、
その石は今でも成長し続けているとあった。
残念ながら、垣に囲まれた本殿の下を見ることは出来なかった。


境内入口

参道

参道と社殿

社殿

本殿

本殿

明神山の祠

主石神社
鎮座地鉾田町大字大和田字明神山一〇二七
祭 神大山祇神
由 緒 創建年代 不詳
貞観三年(八六一)九月十三日従五位上を授けられる。(三代実録)
嘉祥三年(一一〇八)六月 官社に列す
延喜式神名帳 小社に列す
常陸国二十八社の一
社伝
「上古里人一拳石を土中より拾う。その石、成長して止まず。神の宿り給う ものと畏み、これを浄地に置く。祈るに験あり。石の上に社を建て主石大明 神と崇める。その石、今も成長し、社の縁板を折掲し板を削り対処した。」
明治六年四月 村社
大正六年 供進指定
昭和二十七年七月十八日 宗教法人成立
「主石神社由来記」に愛媛県大三島町旧国幣大社(現別表神社)大山祇神社 の末社とある。
 主石神社は古くより存在しており、その後、御祭神、神石から大山祇神社 との関連が生じたものと考えられる。
 当社の本殿は天正年間(一五七三〜一五九一)の建築との伝えがあるが記 録はない。しかし、その時代の様相を各所に示し、全体に簡素であることも その特徴である。
 化粧垂木は「反り増し」の技法で先端部を反らせ断面を大きくしている。
 横羽目板に縦挽き鋸の跡があり、柱の溝に入れる部を丸刃手斧で削るなど 工具の歴史、伝播の状況を知る上で大切である。向拝柱の大面取りや、丸柱 に製作の過程を残し、正面上部の彫り物も広く、浅く時代相を見せ、三間柱 流れ造りに珍しく店棚造りにするなど建築史の上からも貴重な存在である。
 昭和六十二年四月一日建築物として町指定文化財となる。

−境内案内より−



【 主石神社 (鉾田市) 】

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