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磐井神社
いわいじんじゃ
[東京旅行] 東京都大田区大森北2−10−8  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ巴

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式内社 武蔵國荏原郡 磐井神社
旧郷社

御祭神
正面 應神天皇
左 大己貴命 仲哀天皇
右 神功皇后 姫大神

東京都大田区にある。
京浜急行の大森海岸駅の南200mほどの大森北に鎮座。
京浜急行線路と第一京浜道路に挟まれて、東向きの境内。

境内入口は第一京浜向き(東向き)。
鳥居をくぐると広い砂利の境内。
正面に社殿があり、右手に境内社の稲荷社。
稲荷社の奥に神楽殿があり、
神楽殿と社殿の間に、江戸文人石碑群。

社殿は、渋い色の入母屋造拝殿と流造の本殿。
拝殿扁額には「武蔵国八幡總社 磐井神社」。

社殿の左手に社務所がある。

実は、境内の左手に池があり
笠島弁天社が鎮座しているらしいのだが、
参拝時に、左手は駐車場だと思い込んで、
ちゃんと見ていないし写真も無い。

境内の案内板には、万葉集の
「草陰の荒藺の崎の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ」
という歌が、この笠島弁天社のことだと記されていたのに。

また、第一京阪沿いの歩道に、社号の「磐井」の井戸があるらしい。
これも見ていない。残念、というより後悔。


江戸文人石碑群の中に、烏石碑がある。
社務所内に保管されている烏石は、江戸の文人・松下烏石が寄進した
烏の模様が浮き出た自然石。

また、延暦年間(七八二〜八〇六)に武蔵国国司の石川氏が奉納した
神功皇后ゆかりの石・鈴石があるらしいが、これは非公開(らしい)。
その石を打つと鈴の音がするということで、
鈴が森の地名が残っている。

人皇三十代敏達天皇二年(573)八月の創祀。

通称は八幡さま。
八幡宮、鈴森八幡宮、鈴森社とも称される神社で、
式内社・磐井神社に比定される古社。

社伝によると、貞観元年(859)、
宇佐より山城国石清水へ八幡大神が勧請された時、
六十州ごとの総社八幡宮を定め、当社が武蔵国八幡総社と定められたという。

ただし、この説の根拠は不明。
『和漢三才図会』には、天正年中(1573〜92)に
八幡神が託宣により勧請されたと記されている。

いずれにしろ、本来の磐井神社祭神は大己貴命と考えられる。

安永九年(1780)に『武蔵演路』によると
七丁(70m?)沖に鳥居があり、そこまでが境内で
漁猟が禁止されていたという。

僕が見落とした笠島弁天社は、
江戸時代には笠島神社と呼ばれていたようで、
当時の祭神は、豊宇賀姫猿田彦菊理姫天満宮、淡島、鹿島。
池の中にあるため、弁財天となったのだろうか。


第一京浜に面した境内入口

鳥居

境内

境内

社殿


拝殿

本殿
後ろを電車が

御神木

拝殿扁額

神楽殿

海豊稲荷神社

江戸文人石碑群

磐井神社略記

扨当社は、人皇三十一代敏達天皇の二年八月始めて経営あり、神座の正面にいますは、応神天皇、左は大己貴命仲哀天皇、右は神功皇后姫大神なり、社の側に【磐井】あり、伝え云ふ土人祈願の時此水を飲むに、祈る所正しきものは、自ら清冷にして、邪なるものは忽ち変じて塩味となる、斯る霊水なるをもつて、近国の病有る者之を服するに其效を得ること著し故に土俗之を称して薬水と曰ふ、磐井神社の名も全く此井有るが為なり。
其後五十六代清和天皇の貞観元年に、六十余州に於て総社八幡宮を選び定めさせ給ひし時、武州においては当社を以つて総社に定め給ひ、宮社に列せし由三代実録に載す、萬葉集に、アライガ崎笠島と詠めるは、此社の所在の地を指すなり、御神宝に、【鈴石】有り、此石は、神功皇后三韓御征伐の際、長門国に宿り給ひし時、豊浦の海にて得玉ひしものにて、御船中の玉座近く置かせられ、夷狭御征伐神国豊栄の基を開き玉ふ、又御凱旋の日は御産屋に置かせられ、御産平安皇子御降誕御在位繁昌の神徳を以て、此石を如意の宝珠と御称美あらせられしと云ふ、其後聖武天皇の御宇、磯川朝臣年足、宇佐宮に奉幣の時、神告に因り此霊石を授けらる、年足の嫡孫中納言豊人卿、当国に守りたし時、神勅に因り当社に奉納せりと云ふ此石打てば、サウサウとして鈴音あり、是れ其名有る所以なり、而して往時此神社の所在地一帯を鈴ヶ森と号せしも、亦た此鈴石あるを以て也。
当社鎮座の初め延暦の頃より永正年中に至る迄六百八十年間は、神威赫然として宮中繁栄たりしも、永正年中兵火に罹り本社末社共に皆鳥有に帰す。其後再営の功成つて復た昔日の如く建立せしも、天文年中重ねて火災に罹り鎮座の縁起其外の書簿悉く焼失し、是より再修ならず、神威日に衰へ、四基の鳥居は海中に倒朽し、宮地は潮波に損缺して漸く社のみわずかに残る、其後寛文年中、神主藤原善光・別当密厳院釈栄等悲歎に余り、社を再興す、天正十八年徳川家康関東下向の節当社に立寄られ参拝あり、其後元禄二巳年三代将軍家光参詣の砌、寺社奉行本田紀伊守を以て向後当社を祈願所に申付ける。
享保十巳年八代将軍吉宗、伊奈半左衛門をして本社拝殿末社共建立せしめられたり、近くは明治元年十月十二日、明治天皇御東行御通輦の際、神祇官権判事平田延太郎延胤をして、当社へ御代参せしめられ、奉弊料金千匹御奉納ありたり。(荏原風土記稿磐井神社由来)

−『平成祭データ』(原文ママ)−



大田区文化財
磐井神社
 「三代実録」によれば、貞観元年(八五九) 「武蔵国従五位下磐井神社官社に列す」 とあり、当社を武州の八幡社の総社に 定めたといわれる。
 また「延喜式神名帳」に記載されてい る古社であり、当社の由緒書によれば、 徳川家の将軍もここに参詣したことが 記されている。
 万葉集の「草陰の荒藺の崎の笠島を見 つつか君が山路越ゆらむ」 の歌にある笠島とは、こ この笠島弁天を差したも のという説もある。

−社頭案内板−



大田区文化財
鈴石・烏石(非公開)と江戸文人石碑群
 鈴石は、社伝によれば、延暦年間(七八二〜八〇六)に武蔵国 の国司であった石川氏が奉納した神功皇后ゆかりの石とさ れる。これを打つと鈴のような音がしたことから、「鈴ケ 森」の地名の由来となったと伝えられる。
 また烏石は、烏の模様が浮き出た自然石で、江戸時代の 書家、松下烏石(?〜一七七九)が寄進した。鈴石・烏石は、とも に屋内に保管されている。
 江戸文人石碑群は、この烏石の寄進の由来を記した烏石 碑をはじめ、松下烏石の門人等が建立寄進したもので、向 かって右から次のように並んでいる。
狸筆塚文化六年(一八〇九)
㣭(=退)筆塚天明六年(一七八六)
竹岡先生書学碑寛政八年(一七九六)
烏石碑元文六年(一七四一)
 これらは、かつて弁天池周辺にあったが、神社の境内整 備に伴って現在地に移された。

−社頭案内板−



最終更新日:2014/08/14
【 磐井神社 (大田区) 】

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