[HOME]  >  [神社記憶]  >  [関東地方]  >
メニューを消去する。ページを印刷するために。 印刷用ページ


八幡神社
はちまんじんじゃ
久が原東部  東京都大田区久が原2−18−4  Zenrin Data Com Maps display !!
久が原西部  東京都大田区久が原4−2−7  Zenrin Data Com Maps display !!
久が原東部八幡神社

三つ巴

久が原西部八幡神社

式内社 武蔵國荏原郡 薭田神社
旧村社

御祭神
誉田別命

東京都の大田区にある。
池上線・久が原駅の東1Kmほどの久が原二丁目に鎮座。
小学校の東。宮坂と呼ばれる坂道の途中に境内がある。

境内入口は東向き。階段を登ると鳥居があり、
鳥居の右手に「久が原東部八幡神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐると、正面に社殿。
入母屋造の拝殿は、茅葺の上を銅板で覆っているらしく、
文化二年(1862)建立の大田区文化財。
拝殿の後方には流造の本殿がある。

社殿の右手は砂利の駐車スペースがあり、
神楽殿や末社の稲荷神社(宇迦之御魂命)が祀られている。

久が原には二つの八幡神社があり、当社は東の八幡さま。
正式名はともに「八幡神社」で鳥居の扁額にも「八幡神社」とあるが、
区別のため、東にある当社は久が原東部八幡神社と呼ぶ。

参拝は三月初旬の午後。
東向きの境内は、西日に向かって参道を進むことになり、
写真が逆光になって撮りにくい。

社伝によると、天平神護元年九月(765)、
豊前国宇佐八幡宮の分霊を勧請し、
武蔵の南端久が原台地の住民の鎮守として祀られたという。

『式内社調査報告』では、式内社・薭田神社の論社として
南久が原の鵜ノ木八幡神社が記されているが、
『日本「神社」総覧』の薭田神社論社の欄には、
鵜ノ木八幡神社ではなく、当社の住所が載っている。

鵜ノ木八幡神社の社伝では勧請は延徳元年(1489)とあり、
当社の勧請は神護元年(765)なので、
式内社としては当社の方が相応しいように思うのだが。

その後、徳川氏が入国に際して、
久が原は東側の馬込領と西側の六郷領に二分されてしまい、
当地の八幡神社も、馬込領鎮守の八幡神社(当社)と、
六郷領鎮守の八幡神社(久が原4丁目鎮座)に別れてしまい、
祭祀も別々の氏子によって行われているようだが、
ともに明治六年村社に列した。

ところで、二分される前のオリジナルの社はどちらなのだろうか。
『日本「神社」総覧』には西の八幡ではなく当社・東部八幡の住所が記されており
当社の社伝では「久が原台地の一番の高所に奉斎」とあり
高台にある当社が創祀当初の境内であるような気がするが、
今となっては、どちらでも良いような気もする。

社殿右手に社務所があり、同じく久が原にある
西の八幡さまへの行き方をお聞きした。


久が原東部八幡神社社頭

鳥居

久が原東部八幡神社境内

拝殿

本殿

社殿

稲荷神社

神楽殿

久が原東部 八幡神社の由緒
御祭神 誉田別命(別名十五代 應神天皇)
 御神像…長七寸の甲冑を帯して座せる木像鎮座
御創建の由来  御創建は天平神護年間(七六五)と伝えられ、豊前(大分県)の宇 佐八幡宮より御分霊を勧請奉斎、久が原台地の一番の高所に祀られた。 徳川氏が入国してから、東側の馬込領(向・むかい)西側の六郷領(原・ はら)二分され、当社は馬込領久が原の「鎮守さま」として地域の住 民から厚い信仰を受けて来ました。社格 明治六年村社に列せらる。 本殿 切妻造、千木、鰹魚木付、銅板葺、弘化元年(一八四四)再建  拝殿 入母屋造、銅板葺、唐破風向拝付、文久二年(一八六二)竣功
 社殿は、本殿、幣殿、拝殿が一体化しており、規模は一番大きい 社殿は正面三間×側面二間 昭和四十二年(一九六七)茅屋根の葺き 替え、さらに昭和五十三年(一九七八)には銅板に葺き替えられ、同 時に本殿外壁の漆喰塗り工事が行われた。
昭和四十九年(一九七四)二月大田区文化財指定。
○現境内地 四三六坪(一四四一、三三㎡) ○元別当 本光寺
○末社稲荷神社(宇迦之魂命)木造流造、建立年代不明
○宝物 屏風二枚(貞明皇后下賜品)
祈願の
 すすめ
初宮参り・厄除招福・家内安全・長寿祈願・車祓交通安全
学業成就・商売繁昌・工事安全・病気平癒等
祭事暦
一月一日元旦祭
二月初午稲荷神社例祭
二月二八日祈年祭
六月二九日夏越大祓式
九月第一土・日曜日例大祭
十一月二九日新嘗祭
十二月二九日師走大祓式
十二月三一日除夜祭

−境内由緒書き−

久が原東部八幡神社の北西300mの久が原四丁目に西の八幡さまがある。
東部八幡神社の西にある小学校から北へ向かって150mほど坂道を下る。
近くに幼稚園があるようで、迎えのお母さん達の自転車が多かった。

こちらの八幡神社も境内入口は東向き。
階段途中にある社号標には「久が原西部八幡神社」。
階段を登ると鳥居があり、鳥居をくぐった参道右手に手水舎。
参道正面に美しい朱の社殿がある。

拝殿は入母屋造銅板葺き。本殿は流造。
境内由緒石碑によると昭和五十四年に造営されたコンクリート造のようだ。

当社の社殿が新しく朱色であるため、
東部八幡神社の茶の社殿とは対象的な雰囲気。
二社をセットで考えると、姫神を祀っているかのように錯覚する。

本殿の右手に境内社の稲荷神社(宇迦之魂大神)があるが、
稲荷神社の社殿が、昔の本殿らしい。
稲荷神社には、徳川家康も相殿の祀られている。
拝殿の左手に三角点と力石(歓喜石)がある。


久が原西部八幡神社社頭

境内

久が原西部八幡神社境内

拝殿

本殿

境内

稲荷神社

神楽殿

社殿横に三角点

力石

社殿御造營紀念
八幡神社(久が原西部八幡神社)
鎮座地大田区久が原四丁目二番四号
境内地二、六四一・三三平方米
御祭神譽田別之大神
例祭日九月十五日
由緒  神護元年九月(七六五年)豊前の国 宇佐八幡宮の御分霊を勧請 武蔵の南端久が原台地(弥 生時代の集落地)の住民の鎮守として、尊崇せられ、徳川入国以来 久我原は二分され、当 社は六郷領鎮守となり 明治六年(一八七三)村社に指定された。旧社殿(銅萱葺権現造)五二、 八九平方米は、文化七年七月約百七十年(一八一〇)前の御造営にして、長年月を経しにより 、諸所に朽損の箇所多く 今度氏子の奉賛により 新しく社殿が御造営され 且つ篤志 家の奉納により 手水舎をはじめ境内工作物 殿内調度備品等一切が完備した。 「社殿は 地鎮祭 昭和五十二年十一月二日、上棟祭 昭和五十三年七月二十八日、正遷座祭 昭和 五十四年九月十三日にそれぞれ斉行した 九月十四日より十六日迄竣工奉祝祭例大祭が執 行され 奉祝稚児行列、御神輿の渡御 奉納演舞、演芸等 神賑が盛大に行われた。」
社殿昭和五十四年九月吉日御造営、銅板葺、鉄筋コンクリート八幡造一一一、四八平方米
社務所昭和三十一年九月新築、木造瓦葺平家、一九一、八平方米
神楽殿昭和四十一年九月建設、五八、三二平方米。瓦葺鉄筋コンクリート造り
御輿殿昭和三十六年九月建設、瓦葺、木造モルタル造り、二六、四五平方米 御神輿、大、弐基、小、壱基、山車、弐台
末社稲荷神社 祭神 宇迦之魂大神 相殿 東照宮(徳川家康公)社殿 明治十二年九月御造営  銅板葺権現流れ造り(元八幡神社本殿)
氏子区域大田区久が原一丁目―四丁目、北嶺町の一部

−境内由緒石碑−



【 久が原東部八幡神社 久が原西部八幡神社 (大田区久が原) 】

ボーダー




関東地方
japanmap
全国 北海道・東北地方 関東地方 甲信越地方 北陸地方 東海地方 関西地方 中国地方 四国地方 九州・沖縄地方
神奈川県

埼玉県

東京都
稲城市
国立市
三宅支庁 御蔵島村
三宅支庁 三宅村
多摩市
大島支庁 新島村
大島支庁 神津島村
大島支庁 大島町
大島支庁 利島村
八丈支庁 八丈町
府中市
江東区
港区
渋谷区
新宿区
千代田区
台東区
大田区
中央区
品川区
文京区
北区

群馬県
みどり市
安中市
伊勢崎市
甘楽郡 下仁田町
甘楽郡 甘楽町
桐生市
吾妻郡 高山村
吾妻郡 草津町
吾妻郡 中之条町
吾妻郡 長野原町
吾妻郡 東吾妻町
高崎市
佐波郡 玉村町
渋川市
沼田市
前橋市
藤岡市
富岡市
北群馬郡 吉岡町

栃木県

茨城県
かすみがうら市
つくば市
ひたちなか市
稲敷郡 阿見町
稲敷郡 美浦村
笠間市
久慈郡 大子町
結城市
桜川市
鹿嶋市
常総市
常陸太田市
常陸大宮市
神栖市
水戸市
石岡市
東茨城郡 茨城町
東茨城郡 城里町
東茨城郡 大洗町
那珂市
日立市
鉾田市
北茨城市
北相馬郡 利根町

千葉県