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下野國一社八幡宮
しもつけのくにいっしゃはちまんぐう
[栃木旅行] 栃木県足利市八幡町387−4  Zenrin Data Com Maps display !!


三葉葵


三巴

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旧県社

御祭神
譽田別命 大帶姫命 姫大神

栃木県足利市にある。
東武伊勢崎線・野州山辺駅の南東500mほどの八幡町に鎮座。
40号線に面して、南向きの境内入口があり、
入口の銅造鳥居は、足利市の重要文化財で、
寛政四年(1793)に建立されたものらしい。

鳥居をくぐると、参道右手には
足利市天然記念物のクロマツが聳え、
さらに進むと、参道右手には「源姓足利氏発祥の地」と刻まれた記念石碑。
八幡太郎源義家の子・義国が下野国足利の別業(私領)である当地に籠り
当地から足利氏が発祥したということだろう。

さらに参道を進むと鳥居が立っており、
階段を上ると、清浄な砂利の境内。
境内の奥(北側)に、入母屋造の堂々とした拝殿。
拝殿の後方、垣に囲まれて華美な流造の本殿がある。

本殿の近くに境内社の小祠が四つ。
大山祇神社、日枝神社、天満宮、若宮八幡宮が並んでいる。

境内の右手に「八幡山古墳群」への道標があったので行ってみたが
起伏のある緑の公園があり、
「憩いの森造成碑」と刻まれた石碑が立っていたが
どこが古墳なのかわからなかった。

社伝によると、八幡太郎源義家が奥羽の賊を追討するとき、
この附近に宿営し、勝利を祈願して山城國の石清水八幡宮を勧請したという。

一説には、醍醐天皇延喜三年(903)二月二十五日の創祀とも、
また、後冷泉天皇天喜三年(1053〜)二月二十五日の創建とも伝えられる古社。

栃木には源頼義・義家親子の勧請と伝えられる八幡宮が幾つか存在し、
栃木県真岡市の中村八幡宮の縁起によると、
八所の八幡宮が勧請されたとある。

当社は、武家の崇敬厚く、
徳川家からは御朱印二十石の社領を許された。

明治五年郷社に列し、明治三十五年県社に昇格した。

当社の正式名は、八幡宮。
一国一社の八幡宮ということから
下野国一社八幡宮と称されているようだ。

一般に一国一社八幡宮というのは
国府八幡宮ともいい、天平年間、諸国の国府所在地に
国衙の鎮守として祀られた八幡宮。
ただし、下野国府は栃木市にあるらしい。

また、栃木県真岡市の中村八幡宮も
白鳳四年創建の一国一社八幡宮らしい。

当社は葵紋の使用を許可された神社らしく神紋は三つ葉葵。
ただし、境内のアチコチには八幡宮特有の三つ巴紋も多く見られた。

境内の左手奥に、日本三大縁切稲荷の一つ、門田稲荷神社が鎮座。
門田稲荷神社への参道には八坂神社があり
中には二基の御輿が納められていた。

ちなみに日本三大縁切稲荷の他の二社は、
東京の榎木稲荷と京都の伏見稲荷らしい。


社頭

銅造鳥居

参道とクロマツ

記念石碑と参道

参道鳥居

境内

本殿

拝殿

境内

境内社

八幡山古墳群?

縁切 門田稲荷神社参道に八坂神社

縁切 門田稲荷神社

縁切 門田稲荷神社

下野國一社八幡宮の由緒
 八幡宮は清和源氏の氏神とされています。下野國一社八幡宮の由来は、源義家(八幡太郎)が奥羽(現在の東北地方)出陣のとき、 この附近に宿営し、勝利を祈願して山城國(現在の京都府)の石清水八幡宮を勧請したことによると伝えられています。以降、 源姓足利氏、長尾氏、徳川氏によって手厚く保護され、特に江戸時代には御朱印二十石として、付近の土地領有を許さ れていました。現在の社殿は文化11年(1814)に再建されたもので、当時の図面も残されています。

−境内案内板−



源姓足利氏発祥の地
 八幡太郎源義家は十一世紀後半の武将として夙に名高い。 義家は下野守、陸奥守を歴任しながら、東国を足場にして、 前九年・後三年の役という奥羽の二つの内乱を朝廷の命に よるとはいえ、ほとんど独力で鎮定させている。まさに偉 業というべきであろう。
 この義家を父に中宮亮藤原有綱の女を母として生まれた のが源義國である。
 京都で生れ育った義國は久安六年(一一五〇)のある日、 宮中に参内の途中、偶然にも当時右大将(のちに右大臣) 藤原実能の行列に出会い争いをおこし、狼藉をしたという ことで、実能の従者らによって馬からうち落されてしまっ た。これに怒った義國の郎徒が実能邸に押しかけ、邸を焼 き払ってしまった。この事件で義國は勅勘をこうむり、下 野国足利の別業(私領)にひきこもってしまった。この別 業は父の義家から伝領された土地だったのであろう。
 この別業ですごすこと数年、仁平四年(一一五四)、 年老いて死期の近いのを悟った義國は出家し荒加賀入道と 号し、翌年に没した。義國の足利在留はわずかな年月であ ったが、これが足利氏。新田氏の成立の発端となったので ある。
(以上、「近代足利市史」より抄出、一部加除)
 この義國の下ってきた足利別業の地が一体、どこなのか。 古来、諸方面から論議されてきたが、下野國一社八幡宮付 近を宛てる説があり、かなりの可能性が高いといわれてい る。
 時は流れ、義國の子の義康は足利氏の先祖として後白河 天皇方に味方して活躍をとげ源姓足利氏発展に大きく貢献 した。その子義兼は鎌倉御家人として将軍源頼朝を補佐し て鎌倉幕府誕生に尽力した。
 そして、この義兼の後胤に尊氏が輩出し室町幕府を築き あげ武家政治を推進したことは高く評価されなければなら ない。
 茲に源姓足利氏の発祥地である下野國一社八幡宮の境内 に記念碑を造立してこれを後世に永く伝えんとする次第で ある。

−境内記念石碑−



八幡宮 御由緒
社伝によると、天喜四年(一○五六)八幡太郎の名で有名な源義家が、陸奥の豪族、安倍頼時父子を討伐(前九年の役)するため当社付近の大将陣に宿営し、戦勝を祈願して現在地に小祠を創建し、山城の国(現京都府)の男山八幡宮を勧請したという。
康平年間に凱旋した義家は神の恵みに感謝し、公自ら兵器を奉納した。文明八年(一四七六)八月、長尾景長は境内社木伐採の禁制を出し保護を加え、その後の元和七年(一六二一)十一月、江戸幕府より二十石の朱印社領を許されているが、この時の設計図や費用明細書などが現存している。
当社は八幡太郎源義家・義国父子の手厚い信仰により源姓足利氏代々の氏神として保護されてきた。明治四年に社格が制定され、同五年郷社、同三十五年には県社に列せられた。
当社は古くは足利荘八幡宮と呼ばれ、下野国内第一の八幡宮として、下野国一社八幡宮、一国一社八幡宮とも称した。

−『平成祭データ』−



最終更新日:2013/10/09
【 下野國一社八幡宮 (足利市) 】

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