[HOME]  >  [神社記憶]  >  [関東地方]  >
メニューを消去する。ページを印刷するために。 印刷用ページ


稲毛神社
いなげじんじゃ
神奈川県川崎市川崎区宮本町7−7  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ巴



旧郷社

稲毛神社公式サイトを開く

御祭神
武甕槌神
配祀
経津主神 菊理媛神 伊弉諾神 伊弉冉神

神奈川県川崎市にある。
川崎駅から東へ500mほどの宮本町に鎮座。
市役所通りと第一京浜(15号線)との交差点の北側に境内がある。

境内入口は西側と南側にあり、第一京浜脇の南側入口には大きな鳥居が立っている。
西側参道入口には「郷社稲毛神社」、南側(第一京浜側)参道入口には
「稲毛神社」と刻まれた社号標が立っている。

南側の大きな鳥居をくぐり参道を進むと左手に手水舎や神楽殿。
右手に境内社が並び、さらに進むと垣に囲まれて社殿がある。

社殿は東向き(やや南寄り)。
社殿の前に享保三年(1718)建立の大鳥居。
大鳥居の奥に鉄製の扉があり、その奥にコンクリート造の社殿がある。
拝殿は神明造平入、後方の本殿も神明造。ともに銅板葺のようだ。

社殿の前には、左右に天地睨みの狛犬。
右は背伸びして天を祓い、左は伏せて地を祓う姿。
上半身の願いは右の狛犬を、下半身は左の狛犬を撫でて願うらしい。

社殿の正面には立派な御神木の大銀杏(樹齢一千年)があり、
その周囲の柱の上に十二支の像が置かれ、銀杏の周りを回って
御神木大銀杏十二支めぐりをするようだ。

また、社務所の横には旧御社殿跡。
旧御社殿は、江戸中期の宝永年間に田中田中休愚によって造営された建物だが、
昭和二十年の空襲により灰塵と記してしまった。
境内には、その田中休愚が享保十四年(1729)川崎宿鎮守山王社(現稲毛神社)に
奉納した手洗石や、小土呂橋遺構などがある。

参拝は三月後半。
横浜から上田市に戻る途中に途中下車して参拝。
電車の時刻が気になったので、御朱印などは割愛したが
今は、ちょっと後悔している。

創祀年代は不詳。
社伝によれば、第十二代景行天皇東国御巡遊のおり、当社にて賊難を避けられたといい、
第二十九代欽明天皇の御代、この地方に動乱が絶えなかったため、
天皇は当社に幣帛・七串を奉り、新たに経津主神菊理媛神伊弉諾神伊弉冉神を配祀し、
社領を寄進して勅願所とした。

鎌倉時代には将軍家より社領七〇〇石を賜り、
源頼朝の命を受けた佐々木四郎高綱が社殿を造営した。

当社は初め祭神の名から「武甕槌宮」と称していたが、
平安時代末期、この地を領有した河崎冠者基家 (秩父平氏) が山王権現を勧請。
以後、「河崎山王社」「堀之内山王権現」「五社山王」「三社宮」などと呼ばれていた。

「山王権現」とは、天台宗系の神仏習合思想「山王一実神道」を意味するものであり、
慶応四年、御征討のため下向された有栖川宮熾仁親王殿下の、
「御社名、新政府の神仏分離の方針に相応しからず」との言葉により、
鎮座地武蔵国稲毛庄の名をとって「川崎大神稲毛神社」と改称。
その後、一時「川崎大神宮」と呼ばれた時期もあったが、
明治中期に現社号「稲毛神社」が固定した。

明治六年郷社に列した。

南参道の手水舎や賽銭箱に三つ巴紋があり、
『全国神社名鑑』にも当社の神紋は左三つ巴紋と記されているが、
境内参道の幟や、公式サイトには剣紋がある。
不動明王が持つような剣で周囲に飾りがあるが、名前は未確認。
剣紋は神紋ではなく社紋なのかもしれない。

当社境内は広く、境内社も多い。
まず、本殿横(南側)には以下の境内社は以下の通り。右から、
白山神社(白山媛神伊邪那岐神伊邪那美神)、
川崎天満社(菅原道眞)、佐々木神社(少名彦名命、宇多天皇、佐々木四郎高綱)、
浅間神社(木花咲夜比賣命)。
佐々木神社に祀られている佐々木四郎高綱は源頼朝の命を受けた稲毛神社造営奉行。

社殿正面にある大銀杏には大銀杏の神靈が祀られている。
そこから南へ、第六天神社(於母陀流神訶志古泥神)と
堀田稲荷神社(宇迦之御魂神豊受比賣神)。

垣の外には、子神社(大國主命)。
子神社は、現存する川崎宿時代の唯一の建物で鉄の柵で保護されている。

子神社の隣りに大鷲神社(日本武尊)。
さらに以下の社を合わせ祀った境内社がある。
右から、三峰神社(伊弉諾神伊弉冉神)、
御嶽神社(櫛眞知命大己貴命少名彦名命)、
八坂神社(素盞嗚命稲田姫命、八柱御子神)、
大神宮(天照大御神豊受大神)、松尾神社(大山咋神市杵嶋姫神)、
金刀比羅宮(大物主神)、福田稲荷神社(宇迦之御魂神豊宇氣比賣神)。

神楽殿の脇には、和嶋弁財天社(市杵嶋姫命)が祀られ、横に御神水吹上げ井戸石枠がある。


南側(第一京浜)参道入口

西側参道入口

境内


神楽殿

脇に和嶋弁財天社と
御神水吹上げ井戸石枠

境内に大鳥居

社殿

旧御社殿跡

社殿

天地睨みの狛犬(左)

天地睨みの狛犬(右)

本殿横の境内社

境内社から本殿

第六天、堀田稲荷

子神社

大鷲神社

境内社

社殿正面に御神木大銀杏

小土呂橋遺構

手洗石

稲毛神社 御由緒・御沿革
当神社のご創建の年代は詳らかではありませんが、御神木大銀杏の樹齢が一千年と推定されるところから、当地の古社であることがわかります。
社伝によれば、第十二代景行天皇が東国御巡遊の折当神社に賊難を避けられたといい、第二十九代欽明天皇の御代、この地方に動乱が絶えなかったため、天皇は当神社に幣帛・七串を奉り、新たに経津主神、菊理媛神、伊弉諾神、伊弉冉神を配祀せしめられ、戦勝とその後の親和協力を祈られ、以後長く勅願所であったと伝えられます。
鎌倉時代には将軍家より社領七〇〇石を賜り、佐々木四郎高綱公が源頼朝公の命を受けて御社殿の造営に当たりました。
足利時代には、当時の神主が新田家と関係が深かったため社領を二〇石に削られてしまいました。しかしこの時代の信仰の深さを物語る史料として、応永十一年 (一四〇四) の大般若経六〇〇巻施入の記録があります。また新潟県の国上寺に現存する長禄二年 (一四五八) 銘の鰐口は、河崎山王社すなわち当社に奉献されたものです。
秀吉公および江戸幕府からは二〇石を賜りました。とくに家康公江戸入部に際しご巡見のおり当神社にご参拝あり、随神門、神馬等の寄進を受けたと伝えられます。江戸時代中期以降は平和な時代風潮の中で殷賑を極め、社家九家社人十三人を擁し、川崎宿および河崎七ヶ村の鎮守として広く近隣一円の崇敬をあつめていました。
例大祭「河崎山王まつり」は六月十五日に行われ、その盛況なさまから「東の祇園」と称されて街道名物の一つとなっていました。
当神社は初め御祭神の御名をそのままとって「武甕槌宮」と称していましたが、平安時代末期にこの地を領有した河崎冠者基家 (秩父平氏) が山王権現を勧請して以後、「河崎山王社」「堀之内山王権現」「五社山王」「三社宮」などとよばれていました。山王権現の称号は、天台宗系の神仏習合思想「山王一実神道」によりますが、慶応四年、御征討のため下向された有栖川宮熾仁親王殿下が当神社にご休憩され、その折の殿下の御言葉「御社名、新政府の神仏分離の方針に相応しからず」により、鎮座地武蔵国稲毛庄の名をとって「川崎大神稲毛神社」と改称しました。その後、一時「川崎大神宮」と呼ばれた時期もありましたが、明治中期には「稲毛神社」が固定しました。
旧御社殿は、江戸中期の宝永年間に田中丘隅の世話によって造営された荘厳優雅な建物でしたが、昭和二十年の空襲により灰塵に帰してしまいました。しかしその後、氏子崇敬者の赤誠によって、昭和三十八年、鉄筋コンクリ−ト神明造り、延べ面積一〇一坪の華麗なる現社殿の新築を見ました。
なお当神社は、昭和四十一年、神社本庁より「別表に掲げる神社」に指定されました。

−『平成祭データ』−



【 稲毛神社 (川崎市) 】

ボーダー




関東地方
japanmap
全国 北海道・東北地方 関東地方 甲信越地方 北陸地方 東海地方 関西地方 中国地方 四国地方 九州・沖縄地方
神奈川県

埼玉県

東京都
稲城市
国立市
三宅支庁 御蔵島村
三宅支庁 三宅村
多摩市
大島支庁 新島村
大島支庁 神津島村
大島支庁 大島町
大島支庁 利島村
八丈支庁 八丈町
府中市
江東区
港区
渋谷区
新宿区
千代田区
台東区
大田区
中央区
品川区
文京区
北区

群馬県
みどり市
安中市
伊勢崎市
甘楽郡 下仁田町
甘楽郡 甘楽町
桐生市
吾妻郡 高山村
吾妻郡 草津町
吾妻郡 中之条町
吾妻郡 長野原町
吾妻郡 東吾妻町
高崎市
佐波郡 玉村町
渋川市
沼田市
前橋市
藤岡市
富岡市
北群馬郡 吉岡町

栃木県

茨城県
かすみがうら市
つくば市
ひたちなか市
稲敷郡 阿見町
稲敷郡 美浦村
笠間市
久慈郡 大子町
結城市
桜川市
鹿嶋市
常総市
常陸太田市
常陸大宮市
神栖市
水戸市
石岡市
東茨城郡 茨城町
東茨城郡 城里町
東茨城郡 大洗町
那珂市
日立市
鉾田市
北茨城市
北相馬郡 利根町

千葉県