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旧別格官幣社 御祭神 藤原秀郷(田原藤太 俵藤太) |
栃木県佐野市にある。
佐野駅の北東5Kmほどの唐沢山山頂に鎮座。
かっては唐沢城の本丸があった場所に神社がある。
唐沢山の南から参道がのび、麓に鳥居。
山頂の神社近くまで車で登ることができ、駐車場もある。
参道沿いには、幾つかの末社や「大炊の井」など。
創建は明治16年。旧別格官幣社である。
平安中期の下野の英雄・藤原秀郷を祀る。
藤原秀郷は、下野大掾村雄の子で、
幼少期に近江の田原の里にいたことから、
田原(俵)藤太とも称し、下野押領使に補されて
唐沢山に築城した。
天慶二年(939)十二月、平将門が下野・上野を侵略した時、
平貞盛と協力して、これを討ち(天慶の乱)、
武蔵・下野の国守となり、鎮守府将軍となった武将。
祭神の墓所は安蘇郡田沼町新吉水(当社の西2Km)にあり、
飛地境内となっている。
藤原秀郷の物語で、もっとも有名なものは「ムカデ退治」。
弓矢の名手である秀郷が、
琵琶湖の南、瀬田橋を渡ろうとしたところ、
橋の上に横たわった大蛇を、臆することなく跨いで通った。
その豪胆に、大蛇に化身していた龍神に見込まれ、
三上山の大ムカデ退治を懇願される。
戦闘の末、唾をつけた矢を打ち込んで見事にムカデを退治した秀郷は、
龍神の助けで、その後、平将門の秘密を見破り、
将門を討ち取ることができたという。
同じく下野国の二荒山と、隣の上野国の赤城山の神戦では、
二荒山大神が大蛇、赤城山大神が大ムカデとなり、
最後は、猿丸太夫の弓矢の助けで二荒山大神(大蛇)が勝利する。
これは全く同じ伝説モチーフ。
下野国は蛇をトーテムとする氏族の土地なのだろう。
参道にある「大炊の井」は、唐沢城築城の際、厳島大明神に祈請し、
霊夢によって掘ったところ、湧き出たもの。
深さ9m、直径8m。
神紋は、三つ巴。
藤原秀郷の紋を使用しており、社殿や賽銭箱に見られるが、
授与所のステッカーには揚羽蝶のマークが付いていた。
揚羽蝶は藤原秀郷後裔で、当社の宮司を務めた佐野氏の紋。
他に九曜紋も使用しているらしいが、これも佐野氏の紋。
三つ巴も、佐野氏の紋でもあるのだ。
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唐澤山神社由緒
祭神 藤原秀郷公(田原藤太秀郷) 神階 贈正二位 元別格官幣社 秀郷公は天児屋根命二十二世の孫藤原鎌足を祖とし、数代 を経て上野国邑楽郡河辺荘赤岩の館にて生を受け 幼少 の頃近江國(今の滋賀県)と山城國(京都府)の境にある宇治の 田原という所に住んで弓馬の器量優れ 人々より田原藤 太と慕われた。その頃近江は三上山に大むかで出没し人々を苦 しめている事を聞き 得意の弓術にてこれを打つ、琵琶湖の 神・龍王はこの功を賞賛し 公はこの時神縁を受く。時の 朝廷よりは従五位下に叙され下野國押領使に補される(延長 五年四月 927)よって居城を唐澤山に築く。第六十一代朱雀天皇の 御代天慶二年十二月(九四〇)平将門下野を始め関東各地を侵略 す。公平貞盛と共に下総國・幸島の北にて迎撃し将門を滅 す。時に天慶三年二月十四日(世に之を天慶の乱と云う)朝廷其の功を 賞し従四位に叙し、武蔵・下野両國守に任じ鎮守府将軍 とす。以来六百七十年間子孫善政をしいたが慶長七年(一六〇二)三十 代佐野信吉公の時廃城となった。明治十六年八月六日特旨を 以て正三位を追贈されるに及び後裔一族旧臣等、公の御遺徳 を偲ぶ人々により明治十六年九月に本殿及拝殿を創建し 御鎮座申し上げた。更に明治二十三年十一月二十九日別格官幣社 に列せられる。大正七年十一月十八日特旨を以て贈正二位とされる。
−参道案内板− |