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江島神社
えのしまじんじゃ
[神奈川旅行] 神奈川県藤沢市江の島2−3−8  Zenrin Data Com Maps display !!


波に三鱗

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旧県社

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御祭神
辺津宮 田寸津比賣命
中津宮 市寸嶋比賣命
奥津宮 多紀理比賣命
龍宮 龍神
御窟内
田寸津比賣命 市寸嶋比賣命 多紀理比賣命
天照皇大神 須佐之男命

神奈川県藤沢市にある。
藤沢市というより江の島と言った方がわかりやすい。
それほど有名な観光地にある神社。
大昔、一度参拝したはずだが、人ゴミが苦手でほとんど覚えていない。
ということで、今回は平日の早朝、日の出の頃、人の少ない時刻に参拝。

小田急線片瀬江ノ島駅から「江の島大橋」を渡る。
通常、人は弁天橋を渡るのだが、2013年2月に事故があったらしく
弁天橋の安全が確認できるまで、
自動車専用橋「江の島大橋」の一部が歩道になっていた。

橋を渡ると参道入口に緑青色になった鳥居。
鳥居をくぐり参道の緩やかな坂道を登ると朱の大鳥居。
大鳥居の奥に、龍宮の門のような「瑞心門」があり階段を登ると辺津宮境内。
大鳥居の左手に境内まで登るエスカレータがあるが、
僕は使っていないので詳細は知らない。

辺津宮拝殿の前には、茅の輪が設置されていた。
一般の神社では、六月の夏越祓や十二月の大祓の時期に置かれているが
当社では通年あるのだろうか。

社殿の左手には、日本三大弁財天の妙音・八臂弁財天尊像を納めた弁天堂。
他の日本三大弁財天は、安芸宮島の厳島神社琵琶湖の竹生島神社
ちなみに五弁天では、天河と金華山が加わる。

弁天堂の左手に境内社があり、中津宮へと続く参道になっている。
江島神社は、瑞心門の上にある辺津宮、江の島中央部にある中津宮、
江の島西側にある奥津宮の三社の総称で、
さらに、奥津宮の隣りに龍宮が祀られ、
その先には、当社発祥の場所である岩屋(巌窟)がある。

当社の神紋は「波に三鱗」。
『太平記』に、時の執権・北条時政が榎嶋(江の島)に参籠して
子孫の繁昌を祈ったところ、赤き袴に柳裏の衣を着た美しい女性が現われ、
「汝の前世は箱根法師である。その善行によって子孫は末永く日本の主となる」と告げ、
たちまち大蛇の姿となって海中に消えた。あとに鱗が三つ落ちていたという。

創祀年代は不詳。
古くは江島明神と称し、日本三弁天の一つとして崇敬された古社。
一説には開花天皇六年四月、欽明天皇十三年四月、文徳天皇仁寿三年など。

境内案内によると、欽明天皇十三年(552)、
江の島岩屋の中に鎮座されたのが当社の起源。

天保十三年(1842)に再建された奥津宮は御旅所と呼ばれ、
昔は、岩屋内の弁財天が、四月初の巳の日から十月初の亥の日まで
御旅所(奥津宮)に遷座されていたという。
現在、その弁財天は辺津宮境内の弁天堂にある。

文徳天皇仁寿三年(853)、
上之宮(中津宮)が慈覚大師によって創建され、
土御門天皇建永元年(1206)、
源實朝によって下之宮(辺津宮)が創建された。

以前は、江の島の総別当として岩本院という寺院があり、
下之宮には別当下の坊、上之宮には別当上の坊があった。

寿永元年(養和二年、1182)、
源頼朝が鎮守府将軍藤原秀衡の調伏祈願のため、
文覚上人をしてこの島の巌窟に弁財天を勧請せしめた。
以後、鎌倉幕府および武家・庶民の崇敬篤く、
健保四年正月託宣があり三浦義村が遣わされた。

降って、将軍頼経、太田道潅等の社参があり、
慶長五年、徳川家康は窟中に入って祈願し、
以後、徳川幕府の崇敬篤く、三五石余の朱印領を寄せた。

祭神は、天照皇大神との誓約の際に
須佐之男命の御剣から生まれた三柱の女神。
辺津宮には田寸津比売命、中津宮には市寸島比売命
奥津宮には奥津島比売命が祀られている。

また、龍宮には龍神が祀られ、岩屋左奥には天照皇大神と須佐之男命、
岩屋右奥の当社発祥の場所には、三女神が祀られている。

明治六年、県社に列した。

階段途中には弁財天童子像や福石がある。
関東総検校となり徳川綱吉の病を治した杉山検校は
当社に参篭し結願の日の帰途、この福石につまづいて
松葉の入っている竹の管を拾い、弁財天女の影向を拝んで
管鍼の術を考案したという。

弁天堂の前には白龍銭洗池。
ここで金銭を洗うと金運が向上するらしい。

弁天堂の左手には境内社の八坂神社(須佐之男命)と
秋葉社・稲荷社(火之迦具土神豊宇気毘売命)が祀られており
さらに宋国伝来の古碑がある。
元久元年(1204)仏教使節として宋国に渡った僧良真が、
帰国の際に慶仁禅師から授かった碑石。

辺津宮境内を出ると猿田彦大神の石碑が立っている。


江の島大橋から江ノ島。右手の橋が通行止めの弁天橋

参道入口の鳥居

参道

境内入口の鳥居と社号標

瑞心門

弁財天童子像

福石

辺津宮

弁天堂

辺津宮社殿

巾着の形の賽銭箱?

白龍銭洗池

辺津宮境内

八坂神社

秋葉稲荷社

宋国伝来の古碑

猿田彦大神

 江島神社 三宮の御案内
  辺津宮・中津宮・奥津宮の三宮を総称して江島神社と称す
辺津宮(下之宮)御祭神……田寸津比賣命
土御門天皇建永元年(一二〇六年)源實朝が創建
弁天堂には日本三大弁財天の妙音・八臂弁財天尊像を始め十五童子像・ 後宇多天皇の勅願・弘法大師の護摩修法による弁財天像他が奉安されて いる 宋国伝来の古碑・福石・白龍銭洗池・御神木の結びの樹等があり 八坂神社・秋葉稲荷社が境内社として鎮座する
中津宮(上之宮)御祭神……市寸島比賣命
文徳天皇仁寿三年(八五三年)慈覚大師が創建
現在の社殿は元禄二年(一六八九年)の御造営で平成八年の御修繕により 格天井には花鳥画が施され彫刻等が復元された
境内には歌舞伎界より奉納された石灯籠等がある
奥津宮(御旅所・本宮)御祭神……多紀理比賣命
天保十三年(一八四二年)再建
源頼朝奉納石鳥居・酒井抱一画の八方睨みの亀・八十貫の力石・ 鎌倉四名石の一つ亀甲石・御神木・山田流筝曲開祖・山田検校像等がある
龍宮……龍神をまつる(例祭九月九日)
岩屋 波の侵食で出来たもので第一・第二霊窟からなり約一五〇メートル 深奥が当神社発祥の地である 欽明天皇十三年(五五二年)にこの 地に鎮座された
春季大祭初巳例大祭四月初の巳の日
秋季大祭児式初亥祭十月初の亥の日
一歳両度の祭祀として欽明天皇の御代より連綿と継承されている

−参道案内板−


辺津宮から南へ向かうと中津宮がある。
中津宮社殿の左に門があり、奥に水琴窟があるが早朝は門は閉まっていた。

境内には江戸時代に歌舞伎界から奉納された石灯籠や梅・桜などの木があり、
江島三社の中では一番華やかな印象だ。

江の島には多くの名跡や石碑があるようだが
中津宮から西へ、奥津宮へ向かう道には、
一遍上人が島民のために掘り当てたという一遍上人の島井戸、
五穀(木食)を断って木の実だけで修行した木食上人行場窟、
多くの神猿が刻まれた群猿奉賽像庚申塔などがある。


中津宮

中津宮拝殿

中津宮本殿

水琴窟

中津宮境内

一遍上人の島井戸

群猿奉賽像庚申塔

奥津宮参道には源頼朝が寄進したと伝えられる石鳥居。
奥津宮拝殿天井には、酒井抱一による八方睨みの亀の絵があり、
境内には鎌倉四名石の一つ亀甲石、八十貫の力石、
山田流筝曲開祖である山田検校像などがある。

奥津宮の左隣りには龍宮(わだつみのみや)。
案内板の説明によると、江島神社発祥の場所である岩屋洞窟の真上にあるらしい。


奥津宮

奥津宮拝殿

奥津宮本殿

拝殿天井にある八方睨みの亀

奥津宮左隣りに龍宮

龍宮後方の小祠

山田検校像

亀甲石

力石

奥津宮から西へ階段を下りて行くと、
芭蕉句碑・佐羽淡斉詩碑・服部南郭詩碑などが並び、
さらに下ると稚児ケ淵。
建長寺の修行僧・自休が相承院の稚児・白菊と恋に落ちたが実らず、
白菊が身を投げ、自休もそのあとを追った場所。
条件が良ければ西に富士山が見られるらしい。
僕はこの岩の上に座って、海を眺めながら買って来た朝食を取った。

稚児ケ淵から南へ進むと橋があり、
橋の突き当たりに岩屋がある。

岩屋は、第一岩窟と第二岩窟がある。

第一岩窟は奥で二又に分かれ、左奥は富士の氷穴に繋がっているという。
ここには、江島三女神の親にあたる天照皇大神須佐之男命が祀られており、
目連上人の寝姿石がある。

第一岩窟の右奥は、当社発祥の場所と伝えられ、石祠が祀られている。

第二岩窟へ続く橋の途中から見える海の中に亀石があり、
第二岩窟の奥には龍神像がある。


芭蕉句碑など

稚児ケ淵

稚児ケ淵から相模湾

岩屋へ続く橋

岩屋入口

岩屋内部

与謝野晶子歌碑

第一岩屋左奥、富士の氷穴につながるという

第一岩屋右奥、江島神社発祥の場所

第二岩屋手前に亀石

第二岩屋入口

第二岩屋奥に龍神像。ブレた

江島神社
一、御祭神
奥津宮多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)
中津宮市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
辺津宮田寸津比売命(たぎつひめのみこと)
・・天照皇大神
・・左奥・
・・須佐之男命
御窟・・多紀理毘売命
・・右奥・・・市寸島比売命
・・田寸津比売命
御祭神は、福岡の宗像大社や広島の厳島神社と御同神である。天照大神が須佐之男命と誓約をされたとき生まれました神で、御窟の配祀はその御関係によるが、現在御参拝出来るのは右三宮である。 この三女神は、江島大神と称し、海運、漁業、交通の守護神とされ、古くは、江島明神と呼ばれていたが、その後仏教との習合によって弁財天女とされ、江島弁天として信仰されるに及び、海の神、水の神のほかに、幸福、財宝を招き、技芸上達の功徳を持つ神と仰がれた。明治初年神仏分離によって純粋の神社信仰に復したが、江島弁天の呼称も信仰も盛んで、家内安全、商売繁昌、事業繁栄等諸祈願を託す人々が多くなっている。
二、御神徳
むかし、御窟(おんいわや)を本宮といい、中津宮を上(かみ)の宮、辺津宮を下(しも)の宮といった。また御窟を金窟(きんくつ)ともいったのは、中で金色の光を発したからだとも、また金を採取出来たからだともいわれる。社伝によると、「欽明天皇の御宇、神宣により、詔して宮を島南の竜穴に建てられ、一歳二度の祭祀この時に始まる」とある。これが当社の起源であるが、欽明天皇の十三年で西暦五五二年、丁度仏教伝来の年に当る。文武天皇の四年(西暦七〇〇年)、役小角と云う人この窟に参篭して神感を受け、その後泰澄(たいちょう)、道智(どうち)、弘法、安然、日蓮等の名僧が次々行を練り、祈念をこめて霊感を受け、高い御神威を仰いだと伝えられ、神仏習合のあとが著しい。
竜穴は七瀬祓の霊所となっていたことが吾妻鏡(鎌倉幕府の公式記録)に記されているが、七瀬とは当時加持祈祷を行なった七つの霊所で、由比ケ浜(鎌倉)、片瀬川(片瀬)、江の島(霊窟)、金洗沢池(田辺池か)、六連[むつれ](武蔵金沢)、杜戸(杜戸の浦今の葉山、森戸)、鼬河[いたち](柏尾の)の七箇所であった。
毎年四月初の巳の日、神輿が山上の御旅所に渡御され、十月初の亥の日、御窟に還御されたが、のち御旅所を本宮と称するようになり、社殿は壮麗を極めたが、天保十二年(西暦一八四一年)、焼失した。翌十三年、再建したのが今の奥津宮御社殿で、昭和五十四年、御屋根を修復した。中津宮は文徳天皇仁寿三年(西暦八五三年)の創建で、その後、天文十八年七月、北条氏綱公修復。元禄二年、再建。昭和五十五年、改修と度々手が加えられている。辺津宮は土御門天皇建永元年(西暦一二〇六年)、源実朝が創建し、延宝三年再建。昭和五十一年、大改修が行なわれた。
神仏習合の頃、金亀山与願寺と号し、祭神は弁財天女とされるに至り、江島明神は江島弁天として世に広まった。近江の竹生島及び安芸の宮島と共に日本三大弁天として宣伝され、その信仰はいまに残る。しかし、この間天つ神としての当社御祭神の御神威はいささかも曇り給うことなく、御神徳はいよいよ広大に仰がれた。即ち、御宇多天皇は蒙古軍を撃ち退けられた御礼のため、江島大明神の勅額を御奉納になり、源頼朝は鳥居を奉納し、北条時政は参篭して奇瑞を蒙り、竜の三鱗を授けられて家紋となし、氏家は社殿を修理する等鎌倉幕府及び武家、庶民の信仰篤く、次いで慶長五年六月、徳川家康御窟に入って祈願してから徳川幕府の崇敬もここに集り、社領三十五石の寄進があったことなど、その数例に過ぎない。
明治初年、仏式を全廃して、純神道に復し改めて江島神社と号し現在に至る。
三、御社殿その他 
辺津宮、中津宮は権現造りで、奥津宮は入母屋造りである。
東郷元帥揮毫の社号標、源頼朝奉納の石鳥居、延享四年建立、文政四年再建の青銅鳥居がある。この鳥居にはかって大弁財天の扁額にかかっていたが明治初年、江島神社の扁額に改められた。他に大勲位松方公爵揮毫の社号額が中津宮にかけられている。辺津宮坂下には昭和十一年六月、朱塗した大鳥居がある。
中津宮には江戸堺町中村座、江戸葺屋町市村座、江戸新肴場和泉屋甚左衛門らが奉納した石燈篭があり、窟参道鳥居は江戸火消の華「も組」の奉納されたものである。
四、御例祭 四月初の巳の日(例大祭)、十月初の亥の日(例祭)
五、御窟
島の入口から凡そ千米、西南端断崖の下にあって、金窟ともまた蓬莱洞とも云う。すきとおった海水を数十米にわたってたたえる。灯をかかげて進めば路が左右にわかれ、各々の奥に神座がある。時に鳩数十羽この窟中に飛来する。むかしからこうであったと見え、天文二年、左右衛門太夫綱成(さうえもんだゆうつなしげ)の鳩の制札がある。
第二霊窟は、御窟の東方二十五米の絶壁にある。左右二つの窟から成り、深さ二十五米。打ち寄せる涛の音がこもごも二つの窟にこもって霊気身に染み、むかし参篭祈願のところとして有名。(昭和四十六年の落石以来危険の為、現在は御窟内での参拝は出来ません)何れも海波の浸蝕作用に依って断層を洗い去って出来たものでわが国でも珍らしい波蝕洞窟と地質学者は述べている。
六、御末社その他
八坂神社
御祭神 健速須佐之男命、社殿 銅葺 入母屋造 弘化元年建設、例祭 七月十四日、御神体は命の御木像であると伝えられている。昔対岸の腰越津村に祀られていたがその年の海嘯に御窟の前に漂着していたのを島人が拾い上げて此処に祀ったといわれている。
祭礼は、本社の祭礼よりも華麗を極め、毎年七月七日、神輿が坂下の仮宮に出御、十四日には島人が列をなして天王囃子と云う里神楽にて優雅な調べを奏でながら辺津宮より表道を練り弁天橋口の鳥居際から海に舁ぎ入れ、漁師町下の海を浮きつ沈みつ陸では囃子を奏し海では真裸体になって揉み合い、上陸し腰越迄渡御される、非常に賑やかさで湘南唯一の夏祭として有名である。
稲荷社・秋葉社
御祭神 豊宇気毘売命 火之迦具土神、社殿 銅葺 入母屋造、秋葉稲荷、与三郎稲荷、漁護稲荷とか島内の随処に祀ってあった小祠を合祀した社である。
福石
昔杉山検校が社に参篭して、その結願の日の帰途に、この石に躓き仆れ、松葉の這入っている竹の管を拾って、しかもこの石の上に弁財天女の影向を拝み、管鍼(くたばり)の妙術を授けられた処で、検校はこの術で、時の将軍綱吉の持病を癒して、遂に総検校の職を得て、殊遇を蒙ったといわれている。それからこの石の傍で物を拾えば必ず福運を授かると云う伝えから福石と名付けられたのである。
杉山検校の墓 市重要文化財辺津宮参道女坂を下りると検校の墓がある。元禄七年に建てられたもので墓石には前惣検校即明院殿眼叟清権大都と刻まれてあり、毎年五月杉山流の流れを汲む鍼灸按摩マッサージ指圧師の人々により盛大な墓前奉謝慰霊祭が執行される。
七、御宝物
・江島縁起絵巻 五巻 金界天地金箔切砂子紙本 狩野派人、延宝年間の筆になると云う。
・江島縁起 一巻 朱界紙本、奥書に云う。永承二年七月廿六日、延暦寺伝燈大師の作、享禄四年七月廿八日、肥後住人清鏡乗海筆。
・得瑞島上宮縁起 一巻 黒界紙本。
・八臂弁財天御尊像 一体 檜製、施彩色、座像。重要文化財。
・妙音弁財天御尊像 一体 檜製、座像。一尺八寸
・弁財天像 一面 天長七年七月七日、空海御窟に参篭し、護摩修法の灰を以て作る。裏に大師の手形がある。
・制札 一枚 大鷹紙、天正十八年卯月、豊太閤江島寺に於て軍勢等乱暴狼藉を禁制としたもの。
・文覚上人扁額 一面 石彫。長方形で金亀山とあり、養和二年、文覚上人の筆。
・役行者像 一体 楠製。丈一尺四寸、役小角の自作と云う。
・江島大草子 ニ巻
・江島大明神額 一面 檜製、長方形。建治元年九月廿二日書、後宇多天皇の勅額であると伝えられる。
・八方睨亀扁額 一面 抱一筆。
・大太刀 一口 肥前国河内大椽藤原正広。重要文化財。

−『平成祭データ』−



最終更新日:2013/12/14
【 江島神社 】

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