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春日神社
かすがじんじゃ
福井県あわら市中番下番入会地1の甲  Zenrin Data Com Maps display !!


八藤

旧郷社

御祭神
天津兒屋根命 武御賀豆智命 經津主命 姫太神

境内 式内社
越前國坂井郡 井口神社 男大迩命(彦太神)

福井県あわら市(旧芦原町)にある。
えちぜん鉄道三国芦原線・本荘駅の西500mの
中番と下番の境界上に鎮座。
101号線に面して南向きに境内があり、
境内後方には竹田川が東西に流れている場所。
竹田川は、西へ2Kmほど下ると兵庫川と合流し
さらに西へ下ると九頭竜川と合流して日本海に注ぐ川だ。

南向きの入口を入ると、鳥居が建ち、
左手に「郷社 春日神社」と刻まれた社号標。
右手には巨木(松だと思う)。
参道をまっすぐ進むと、正面に社殿。
拝殿後方の本殿は、300年前に建立された文化財らしいが
覆屋の中にあり確認できず。

社殿の右手に、西向きの石祠がある。
これが井口神社。
境内の石碑には相殿と刻まれていたが
このように境内社として祀られている。

当地は、もとはこの井口神社の境内地であった。
井口神社の創祀年代は不詳。

第二十七代継体天皇は即位前は
男大迩命と称し、当地に在住していた。
その頃、国中の水利の不便を憂い
当国三大河(九頭竜川・日野川・足羽川)
および坂井港を開かれ国中の治水を行ない、
当地に行宮を構えた。
天皇の崩御後、当地に社殿を造営し
祭神として祀ったのが初めという。
ただし、祭神には異説もあり、
御井神(井戸の神)とする説もある。

春日神社の創建について。

第六十六代一條天皇の御宇、
越前国の押領使斎藤民部少輔伊伝朝臣が、
藤原氏祖神・春日明神を崇敬しており
本荘郷の徳丸美佐崎を使者として
神供百石を奉献し、勧請を願い出た。

寛弘八年(1011)二月に勅許され、
井口神社境内に社殿を造営して十月に勧請。

当国は、男大迩命の開拓によって耕地は拡張されたが
依然として水利の便が悪かったので、
藤原国等が当社に参籠祈願したところ
満願の夜、霊夢を受け、
白鹿に導かれて水源を求めることができ、
白鹿の歩みに沿って水路を通すことができた。
これを十郷用水という。
十郷とは、本荘郷・新郷郷・大味郷、溝江郷・細呂木郷・
兵庫郷・大口郷・荒井郷・関郷・新荘郷であるが
この十郷に十社の春日社を建立して
豊饒祈願が行なわれるようになったという。

ということで、地図を見ると
当社周囲には春日神社が多いのだ。

十社の春日社の中で、当社は「父神」と称し
総社的な神社であったため、
本来の井口神社が忘れられたのだという。
ちなみに「母神」は宮前の御前神社らしい。

参道の右手(東側)に「神馬之碑」が建っている。
なにか由来があるのだろうか。

社殿の左手には、天然記念物の大きなツバキ。
社殿の屋根には、八藤紋が付けられていた。
藤紋は藤原氏の紋だが、おもに地方に下った支流が用いた紋。
当社も下ってきた藤原氏縁の神社だということだろうか。


鳥居と社号標

社域

鳥居

境内

社殿

本殿覆屋、本殿は未確認

井口神社の石祠

天然記念物ツバキ

神馬之碑

由緒之碑
総社郷社春日神社
相殿式内井口神社
相殿式内井口神社 由緒
一、祭神男大迩命「オオトノノミコト」
 人皇二十七代継体天皇は御即位前、男大迩命と称しておられた。其の
頃、當国坂中井、高向、三国及び所々に御在住しておられた。国中の水
利の不便を憂い給い、當国三大河の九頭竜川・日野川・足羽川及び坂井
港を開かれ国中の治水を行なわれた。其の時一ノ岡に行宮を構えること
になり、この地を名付けて河口之荘本荘と呼ばれた。そして継体天皇崩
御の後、この地に社殿を造営し祭神として勧請し郷中一統の総社として
崇敬し奉り延喜帝の時、式内に列せられた
総社郷社春日神社 由緒
一、祭神武甕槌命「タケミカヅチノミコト」
経津主命「フツヌシノミコト」
天児屋根命「アマツコヤネノミコト」
比咩命「ヒメミコト」
 人皇六十六代一條天皇の御宇、鎮守府将軍藤原利仁四代の苗裔、當国
の押領使従五位上斉藤民部少輔伊傳の勧請に係れり社記に曰く伊傳其の
元祖春日明神に信仰厚く曽て當荘の住人徳丸の男美佐崎なる者を使いと
して神供百石の料を以って南都の春日神社に献じ本国に其の分霊を勧請
せんと欲す。寛弘八年亥年二月、今より八百八十九年前、上奏し神殿を
設け同十月朝命を以って遷宮あり其の供奉として別当には南都の惣大連
公文伊豫守藤原国等々社家四百八十人神輿陪従して来たれり其の時荘官
二十四家を置き社領六百町を寄付せられたり、後 伊豫守国等往時、継
体天皇三大河を開き耕地と成し給えども我が神領の地未だ水田に非ず依
って国等水利を得んと欲し春日明神に祈願すること十七日 奇なるかな
満願の日薄暮のこの神庭に白き鹿来たりて一夜林の下に止まれり其の夜
国等知らず神容甚だ威厳にして告げて曰く 今汝撫民の志を以って祈誓
する処あり朕之を示さん。九頭竜川の上流に行きて尋ねべし必ず水の得
るの奇験あらん自ら悟るべしと、夢たちまち醒めたれば拝謝してすでに
階を降りる。白鹿北東に向かって立ち去れり国等即日数里の川上に到る
ところ一つは八尺の幣を咥え一つは六尺の榑を咥え此に於いて神感の諭
示する所なるを覚り白鹿の到るところに従い行き水源に到れば白鹿は水
中赤色の岩上に起立し茲に鳴くこと三声依って其の地を鳴鹿山鹿と云う
白鹿また乾の方向を指して行く国等これに従うこと数里白鹿左右に伏す
今其の地を鹿伏と云うこの所にて用水左右に分かる。また行くこと二里
余り白鹿二物を捨てて消え失せり、今本荘村藤沢の地内鹿塚という小塚
あり。故に国等直ちに家に帰りこの顛末を社家及び郡民に謀りて白鹿の
通りし跡に就いて幣を標となし河川を開き水を通して田を拓きたれば居
民日を追って繁栄せり今に至る迄この用水の恩恵に浴す。本荘春日社は
十郷の総社にして十社あり本荘郷、新郷郷、大味郷、溝江郷、細呂木郷
兵庫郷、大己郷、関郷、新荘郷あり、大守古へより所々に春日明神を祀
れる所以なり信長豊臣氏の時も国等の開拓の旧功に拠って社司大連に用
水の役儀勤務を命ぜられ黒印を賜い其の他領主代々判物等を賜わり今尚
大連家に所蔵せり本社の郷社に列せられ明治六年一月なり以上国等の子
孫大連氏の家譜及び社記に拠って明治三十二年四月下番藤野市九郎誌す

−境内石碑より−



芦原町指定文化財
本荘春日神社本殿 一棟
 春日神社の本殿は、今から約三〇〇年前に、中番、下番、上 番の氏子らによって建立された。三間社流造、杮葺の建築で、 向拝柱と正面の柱に少し改造がみられるが、創建当時の状態を よくとどめている。
 芦原町における最古の建築の一つで、同じ形式の本殿として は、国指定重要文化財の須波阿須疑神社本殿(池田町)・滝谷 寺鎮守堂(三国町)・鳥居春日神社本殿(鯖江市)とともに、 福井県内でも古い例である。
 上棟札によれば、伊井村(現在の金津町伊井)の大工の杉原 加右衛門らがつくり、金津の桧皮屋と福井の木挽らも関わって いた。造営費の一部は、富札でまかなわれた。このような例は、 これまでに県内では知られていない。
 なお、本殿内の阿弥陀如来立像と薬師如来立像は芦原町指定 文化財である。
建 立 年元禄十二年(一六六九)閏九月六日
文化財指定平成八年三月二十八日指定

−境内案内板−



天然記念物
「ツバキ」芦原町指定
樹 高十一.九メートル
根回り 一.六メートル
目通り 一.七メートル
春日神社は寛弘八年(一〇一一年)に 勧請されたものと記録される。
このツバキの樹令は定かではないが 神社と縁りのあるものとされ、 枝振り幹ともに町内随一の巨樹である。

−境内案内板−



【 春日神社 (あわら市中番下番) 】

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