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式内社 加賀國江沼郡 菅生石部神社 旧國幣小社 御祭神 菅生石部神 |
石川県加賀市にある。
大聖寺駅の北東1.5Kmの大聖寺敷地に鎮座。
大聖寺川を北へ越えると、道路のカーブしている場所に
南向きの境内があり、社前の鳥居が見えてくる。
鳥居をくぐり、階段を上ると神門。
神門をくぐると、広い境内があり、正面に拝殿。
拝殿の後方に、本殿が鎮座。
創祀年代は不詳。
一説には、第十三代敏達天皇の御宇、
菅生石部神は禁裏に勧請されたが、
第三十一代用明天皇の時、当国の五穀豊饒を願って
当地に遷座されたという。
拝殿の前には、牛の像があるが、
中世において、当地は北野天満宮の社領であったらしく、
当社が、菅生天神・敷地天神と呼ばれる由縁。
当社の社地に関して、
元は菅生(大聖寺川の南岸、大聖寺駅近く)にあったという説があるが、
社地の変遷はなかったという説もあるらしい。
現在の祭神は、菅生石部神。
異説として、少彦名神という。
これは天神と呼ばれたことによるものだろう。
さらに、
天津日高日子穗穗出見命・豐玉毘賣命・天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命とも。
第四十代天武天皇は「宝作長久国家安全」の立願により
「御願神事」をはじめられ、以来、二月十日を例祭とする。
例祭日には、「敷地のゴンガン」と呼ばれる大蛇退治の神事が行われるが、
これは、蛇行する大聖寺川の治水を現わしているという。
本殿の左後方に、稲荷社。
右後方には、白山社がある。
神紋は州浜紋。
新潟の御島石部神社の神紋も、同じく州浜紋だったが、
関連があるのだろうか。
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菅生石部神社
社礼特殊信仰など 一、御本殿御扉のこと 御本殿御扉は古來如何なる祭典にも御開扉せざる事一社古傳の秘事である。 一、疫病(オコリ)落しの事 疫病を病む者暁に鳥居の下にて草履をぬぎ參拜祈願の上、うしろを振向くことなく女坂(東參道)を下りて歸宅すれば疫病落つと傳ふ。 一、鯛を供へざる事 御祭神日子穂々出見命の故事により古來鯛を神饌とせず。 一、御神使の事 蛇、龜は御神使にして祭禮豐玉毘賣命の眷屬なれば之を殺すことなかれ、若し之を食せば一生諸願滿足なしと旧記に傳ふ。 一、富樫かくれ道の事 昔富樫の先祖が宮地のとほりに來掛りし時、馬すくみて進み得ざりしを富樫は、我領内に坐す神にして我に咎めあることなし、馬に咎めあるなりとて、馬の首を切り拜殿に投げ込みしより、富樫一家は末末迄社前の通行かなはず、遂に山の後の小道を通路とせしかば、後世これを富樫のかくれ道といひ高き御神威を畏みまつれり。 創祀 用明天皇の御宇、越の江沼の土俗、禮節なく、剽掠を好みて農桑を務めざりしかば、御即位元年九月當地方鎭護の神として宮中より遷祀せしめ給ひ、當國の五穀豐登萬民富饒を御立願あらせられしを、創祀とする。 御神徳 古來武運守護神と崇め奉り後西天皇皇子御降誕の砌安産御守献上の事古文書に見ゆる如く安産御守護の神として又疫病解除、五穀豐饒、養蠶守護、漁業守護の大神として普く高き御神徳を仰ぎ奉れり。 社号と社格 古より菅生石部(すがふいそべ)神社と稱へ、中世以降民間にては敷地天神と申す。 延喜式内社、加賀二宮にして、明治二十九年三月十九日國幣小社に列せらる。 崇敬のあらはれ 陽成天皇の御代正五位下に、朱雀天皇天慶三年正四位下に陞叙せられ、用明天皇御代諸國に疫病流行せし時疫病解除、五穀豐饒を祈らせ給ひ、天武天皇御願神事を始めさせられ、往古より正親町天皇の頃まで一年兩度の居入祭には勅使參向御衣神寶を奉らしめ給ふなど朝廷の御崇敬篤く大正三年攝政宮殿下北陸行啓の御砌には侍従御差遣奉幣あらせらる。 又、木曾義仲・富樫昌家・足利義持・豐臣秀吉・山口玄蕃等武門武將深く尊崇し、前田藩に及び氏神として神地寄進社殿造營調度の修造等絶えず、夏祭を藩祭となし藩の四民を參拜せしむる等崇敬の誠を捧げ奉れり。 特殊神事 一、御願神事 諸國に類例なき勇壯な神事で、毎年二月十日例祭に行はれ、天武天皇の御代、賓祚長久國家安全を祈り治世尚ほ亂を忘れざらしめんとの御立願により行はせ給へるにより御願神事と稱し、氏子崇敬者より奉納の青竹數千を潔齋せる氏子青年數十名、短き白衣一枚、白鉢巻姿で一齊に拜殿に上り喊聲を擧げて打ち割る。 其の音耳も聾し、齋庭に焔々と燃ゆる齋火と共に壯絶を極む。 竹を悉く打碎くや、更に青年は大縄を拜殿より持ち出して積雪の境内をエイエイと互に曳き合ふこと數度、社前の橋上より之を河中に投じて神事を終る。 旧記に大縄を曳き合ふは祭神日向の鵜戸宮にて神軍ありし御學びなりといひ、この縄は大漁に竹は悪事災難除け、豐蠶に靈験ありと信ぜらる。 神事前十日間は神社に於て一切の鳴物を禁ず。 一、夏祭 夏越祓(七月二十四日)疫神祭(七月二十五日)湯の花神事(七月二十六日)の三日間の祭典は災厄を拂ひ清めて四民の安穩と、當年の五穀豐登とを祈願し、敷地祭或は天神講と稱して、年中最も賑々しき祭典である。 神域と社殿 大聖寺川の清流のほとりなる、天神山(一名敷地山)に御鎭座、御社殿四圍の御山よりは今も土器等の出土多く御創立年代の古さが考察される。 社殿は本殿以下昭和十三年八月、十ケ年の日子と十數萬圓の工費とを以つて新改築工事完成せるものにして、畏くも御内帑金下賜の恩命に浴し、御木の香も高き御社頭は千古の神奈備と共に尊嚴愈々加へさせらる。 −『平成祭データ』− |