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伊須流岐比古神社
いするぎひこじんじゃ
[石川旅行] 石川県鹿島郡中能登町石動山子1  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ鱗

式内社 能登國能登郡 伊須流支比古神社
旧郷社

御祭神
伊弉諾命(大宮大権現:伊須流支比古神
相殿
伊弉册命(客人大権現)
天目一箇命(梅宮鎮定大権現)
大物主神 あるいは 迦具土命(火宮蔵王大権現)
市杵島姫命 あるいは 素盞嗚命(剣宮降魔大権現)
配祀
保食神 外七柱
合祀
火産霊神 外七十四柱

石川県の中能登町にある。
石川県と富山県の県境に聳える石動山(564m)の山上に境内がある。
県境といっても石動山全体は石川県側にあり、
県の境界線がそこだけ歪に曲っている。


中能登町西馬場にある雨の宮古墳から見た石動山

2003年に初めて参拝し、今回(2012年)で三回目の参拝。
以前は雨だったので、山頂の大御前へは登っていなかった。
雨の日の参拝は境内の木々が瑞々しく、苔も鮮やかだったので
それはそれで楽しい参拝ではあったのだが、
いつかまた参拝したいと思っていた神社。

山上は能登歴史公園となっており、綺麗に整備された観光地。
石動山には当社・伊須流岐比古神社の別当が発展した天平寺が繁栄し
多くの僧坊や堂塔伽藍が点在していた山岳信仰の霊場であったが、
明治の廃仏毀釈によって瓦解し、多くの寺院が廃絶した。

境内右手には、石動山天平寺を支配していた大宮坊の
勅使橋や御成門や台所門、書院台所棟などの遺構が復元され
本堂跡には礎石が並んでいる。

境内入口には「伊須流岐比古神社」と刻まれた社号標が立ち、
その後方、石垣の前に手水舎。
地元の方が、参拝中にポリタンクで神水を汲みに来ていたので
美味しい水なのだろう。

階段をのぼり、鳥居をくぐると講堂跡。
山中のいくつかの建物は、廃絶時に売りに出されたが
講堂は大きすぎて買い手がつかず、その場で炭となったらしい。

参道を進むと石段があり、右手奥に岩清水が訛ったイワシガ池。
雨乞い祈祷が行われた雨乞池で、
江戸時代の文書では「アカ池」「閼伽池」とある。

石段を上ると苔むした境内に大きな拝殿。
昔は神輿堂として使用されていた建物で、
拝殿の周りに石の礎石が並んでいるが、盛時にはひと回り大きな建物があった。
拝殿の後方、階段の上には本殿の覆屋。
もとは石動山山頂の大御前にあったものを明治になって移したもの。

五社大権現とも称される能登国の二宮で、
式内社・伊須流支比古神社に比定される古社。
ただし、石動山の西麓に二宮という地があり、
当社の下社があったらしく、式内社の伊須流比古神社は麓の下社
山上の上社は、伊須流比古神社と「山」を付けて区別していたとも。

五社大権現とは、石動山山頂・大御前の本社に
大宮大権現(伊弉諾尊・本地虚空蔵菩薩)と
白山から迎えた客人大権現(伊弉冊尊:本地十一面観音)を祀り、
山中の梅の宮に梅宮鎮定大権現(天目一箇命:本地勝軍地蔵菩薩)、
火の宮に火宮蔵王大権現(大物主神あるいは迦具土神:本地聖観世音菩薩)、
剣の宮に剣宮降魔大権現(市杵島姫神あるいは素盞鳴尊:本地倶利伽羅不動明王)を祀る。

また、伊須流支比古神を大入杵命(おおいりきのみこと)とする説もある。
大入杵命は『古事記』に、崇神天皇の皇子で、能登臣の祖とある人物。
「いするぎ」と「いりき」が似てるとか似てないとか。


社頭

鳥居

参道

参道階段

イワシガ池

境内拝殿

もとは大御前にあった本殿

もと神輿堂だった拝殿

石動山の山名のもとになった動字石。隕石じゃないらしい

石川県指定文化財(建造物)
伊須流岐比古神社本殿及び拝殿
昭和四十二年十月二日指定
本殿
 承応二年(一六五三)、加賀藩主前田利常公の寄進 により、大工黒田太右衛門が大御前に建立した ものであるが、明治七年現在地に遷したもので ある。
 桁行三間・梁行二間・向拝入母屋造り・正面 千鳥破風・覆屋軒唐破風の均整のとれた建物で ある。
拝殿
 旧神輿堂であったものを拝殿としたもので、 棟札によれば、元禄十四年(一七〇一)、大工池上兵 助実次・池上亦三郎・小工与四兵衛・与三兵衛 により建立された事が知られる。
 桁行七間・梁行四間・入母屋造りの平入り建 物で飾りの少ない大きな建物である。
 この建物の前・左右側に大きな礎石列があり、 盛時には、これより一まわり大きな堂舎が存在 した事を物語っている。

−境内案内−



動字石
 動字石は、古縁起・新縁起の中で、石動 山という呼名の由来として書かれており、 古くから石動山信仰のシンボルとして崇敬 されている。  また、古絵図には厳重な柵で囲った動字 石が描かれ、能登名跡誌には「此山は、天 より星落ちて石と成、天漢石と号す。今講 堂の前にあり、開山泰澄大師養老二年登山 以前は、石ゆるぎて山震動してあれしに依 り石動山と云り」と記されている。
 ちなみに、この石は隕石ではなく安山岩 である。

−境内案内−


本殿後方に五重塔跡があり。右手に空海を祀った大師堂跡。
左手奥に多宝塔跡、籠堂跡、開山堂跡と続き
さらに登ると梅の宮跡がある。
どれもこれも跡なので建物はなく、空き地に礎石があるだけ。
開山堂は明治になって富山県側山麓の中田の道神社の拝殿となって残っている。

梅の宮は、五社権現の一つで海宮鎮定大権現と称し
天目一箇命を祀り、本地仏は勝軍地蔵菩薩。
現在、梅の宮社殿は、七尾市三島の金刀比羅神社の本殿となっている。

梅の宮跡から右手に行くと石動山城跡。
左手に行くと石動山山頂で、本殿のあった大御前。

大御前には、五社大権現の中心・大宮大権現(伊須流岐比古神)と
白山から迎えた客人大権現(白山姫神)を祀り
それぞれを伊弉諾尊、伊弉冊尊として本地仏は、虚空蔵菩薩と十一面観音。

大御前の祠の横には一願一石奉納所があり、いくつもの石が置かれていた。
講堂跡の近くに、厄除錫杖が置かれ、そこにも石があったが
その石を持って登ると願いが叶うのだろうか。
知らなかったので石は持って来なかった。

大御前から下っていくと、火の宮跡と剣の宮跡が並んでいる。
火の宮は、五社権現の一つで火宮蔵王大権現と称し
大物主神、あるいは迦具土神を祀り、本地仏は、聖観世音菩薩。
剣の宮も、五社権現の一つで、剣宮降魔大権現と称し
市杵島姫命、あるいは素盞鳴尊を祀り、本地仏は倶利伽羅不動明王。

火の宮跡の中央には窪みがあり、
剣の宮跡の中央には塚のような隆起があるのは、何か意味があるのだろうか。
また、富山側には梅の宮があり、石川側に火の宮と剣の宮があるのは
越中に優しく、能登・加賀を警戒しているということだろうか、
などと考えながら下っていくと作事場跡、仁王門跡。行者堂、玉橋跡などがある。

役小角を祀る行者堂は江戸初期に再建されたものだが、
明治の廃仏毀釈で、鹿島町最勝講の天神社拝殿となっていたもの。
地元氏子の理解を得て旧位置に戻されたらしい。
開山堂や梅の宮が戻されていないのは、なぜだろうか、
などと考えながら東へ歩いて行くと、拝殿の横に到着する。

山中には多くの跡や遺構が点在しているので、
時間と興味がある人は歩いてみると面白いかもしれない。
ただし、多くは「跡」なので飽きるかもしれないが、
往時の様子を想像しながら、明治期の暴挙を嘆きながら。

太古の昔、万物の生命を司る星が流れて当山に鎮まった。
この隕石の名を「動字」と言ったので、
山の名は「いするぎ」と称するようになり、
この石を護るために天目一箇命が石動山に鎮まったという。

崇神天皇の御代、天目一箇命の裔孫が
石動山に登って宝剣を納め、宝満宮(伊須流岐比古神社)を創祀。
あるいは、崇神天皇六年、北陸巡按使の大比古命が
当山に登って社殿を造営し、宝剣の鋳移しを神宝として納めたとも。

垂仁天皇の皇子・誉津別命は口がきけなかったため、
諸国の霊場を尋ねて方道仙人に祈願を求めた。
方道仙人が勅を奉じて宝満宮で祈祷したところ
皇子は空を飛ぶ鵠(くぐい)を見て声を発し、
その神恩に感じて当山の宮居で修法し、没後も山中に葬られたという。

養老元年(718)、泰澄が元正天皇より太朝大師の号を賜わって
石動山に登り、石動寺を興して求聞持頭巾の法を勤修。
天平勝宝八年(756)、誉津別命の宮居跡に
大宮坊証誠殿が建てられて、石動寺の号を天平寺と改められた。
孝謙天皇の御代、北陸一帯で恙虫(ツツガムシ)の被害が大きく
勅によって泰澄が北陸七州(加賀、能登、越中、飛騨、信濃、越後、佐渡)を巡って
恙虫を退治しため、天平宝宇元年(757)
孝謙天皇の勅使として左大臣藤原家通が登拝し、四方九里の神地が定められた。

石動山は、当初、白山系天台宗に属していたが
隆盛を迎えるにつれて多くの僧兵をかかえる武力集団となり
建武二年(1335)石動山宗徒が能登の国司中院定清に味方して
越中の普門蔵人利清の軍政と戦い敗れたため、全山の寺殿堂塔ことごとく焼失。
興国二年(1341)足利氏によって再建され、
京都山科の真言宗勧修寺の末寺となった。

戦国末期の天正十年(1582)前田利家勢と戦ったが敗れて、
再び全山が焦土となったが、その後、利家の許しを請い、
以後は前田家の庇護のもとに繁栄し、
北陸七国より智識米の徴収を許可され、石動の山伏僧侶が家々を回ったという。

しかしながら、明治になって神仏分離が布告され
寺領も没収されて、山中の寺堂も廃されて、
五社大権現の号も廃されて、客人社、梅の宮、火の宮、剣の宮も
本社の相殿となって現在の場所に遷されて郷社に列した。

明治三年、石動山院内の六十二社を境内摂社神明社に合祀したが
明治十五年、暴風により他の境内社と共に倒壊し、すべて本殿に合祀された。

本殿の屋根に鱗紋が付けられていた。
当社の神紋は、三つ鱗紋らしい。


本殿の後に五重塔跡

本殿

梅の宮跡。大御前と石動山城跡の分岐点

左が山頂の大御前

右が石動山城跡

山頂の大御前。もと本殿跡

左に願い石

大御前の祠

火の宮跡。中央にくぼみ

剣の宮跡。中央に隆起

行者堂

境内の厄除錫杖

最終更新日:2013/10/09
【 伊須流岐比古神社 (石動山) 】

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