[HOME]  >  [神社記憶]  >  [北陸地方]  >
メニューを消去する。ページを印刷するために。 印刷用ページ


手速比咩神社 下社
てはやひめじんじゃ しもしゃ
石川県羽咋郡宝達志水町
東間ラ2
 Zenrin Data Com Maps display !!

手速比咩神社 上社
てはやひめじんじゃ かみしゃ
石川県羽咋郡宝達志水町
上田出外(宝達山頂)
 Zenrin Data Com Maps display !!

式内社 能登國射水郡 手速比咩神社
旧村社

御祭神
手速比咩神

石川県の宝達志水町にある。
七尾線免田駅の東3.5Kmほどの東間、宝達山(637m)の西麓に下社があり、
下社から約7Kmほど東にあるの宝達山(637m)山頂に上社が鎮座。
山頂まで車道が延びており、車でも参拝ができる。
宝達山は能登の最高峰だそうで、信仰の山であり、金山としても知られているらしい。

参拝は十月中旬、曇天の午後。
免田駅方向から宝達山を目指している時、宝達山上に雲が広がっていた。

当社の社号「手速比咩」は「テハヤヒメ」と読む。


宝達山

宝達山西麓、前田川沿いの車道脇に手速比咩神社下社がある。
参道入口に「手速比咩神社」と刻まれた社号標が立ち、
鳥居をくぐって参道を進むと、境内入口の鳥居。
脇には「式内手速比咩神社」と刻まれた社号標が立っている。

その鳥居をくぐるとツバキの群生している境内。
開花の季節に来れば、きっと美しい境内なのだろう。
そのツバキの奥に当社の社殿。社殿の向きは西向きなので、
宝達山に向かって参拝することになる。

境内にはツバキの他に、町指定文化財で石川県の木である
アテ(能登ヒバ、ヒノキアスナロ)などもある。

宝達山上に上社、山麓に下社があり、宝達明神、宝達権現とも称され、
下社は鎮座地名から東間明神社とも称されていた。

社伝によると、上社は養老年間、泰澄によって創祀され、
旧押水三十二ヶ字の総社として崇敬された神社。
下社は崇神天皇の御宇の創祀、旧大海一郷の総社として崇敬された神社。
式内社・手速比咩神社に比定されている古社である。

祭神は手速比咩神
またの名を奴奈宜波比売命、あるいは沼河比売神とも称し
大己貴命の妻で、建御名方命の母神であるという。

同じく宝達志水町に鎮座している式内社・相見神社の祭神が大己貴命(大国主命)で、
大己貴命が当社祭神と結ばれたという伝承があるらしく、
また東間(あずま)の地名は、大己貴命が出雲へ帰る時、
当社祭神との別れを惜しんで「吾妻」と呼んだことに由来するという。

『式内社調査報告』には、当地の近く坪山地内の水田から
完全な状態のヒスイの勾玉が出土したとあり、
ヒスイの産地である新潟県の姫川上流が、八千矛神(大己貴命)と婚姻した
高志国の沼河比売の地であることとの関連も示されている。

江戸時代には、手速比咩神社(下社)と宝達明神(上社)を区別し、
宝達明神の祭神を大国主命としていたようで、
明治七年、宝達山は手速比咩神の神霊の鎮座するところとして
山上の社を本社あるいは奥社とし、下社を遥拝所とし、
さらに明治四十年、指定村社昇格のおり上社を下社に合祀して、
上社を奥社、下社を本社としたが、
大正八年には、上社を本社、下社を前社と称していたらしい。

明治四十年に、紺屋町の菅原神社、細幡神社、白山神社二社を合祀したが、
昭和二十九年一月二日に各社は分離独立して現在にいたる。


手速比咩神社下社社頭

手速比咩神社下社

ツバキ群の境内

参道階段

手速比咩神社下社境内

本殿

社殿

手速比咩神社 延喜式内社
上社 羽咋郡押水町寶達山頂鎮座
下社 羽咋郡押水町東間ラの貮番地鎮座
祭 神手速比咩神
境内地二、一五一坪
御 由 緒
祭神又の御名を奴奈宜波比売命 或は 沼河比売命と伝へる 宝達山頂と山麓 両所に社殿あり 上社、下社と称す 上社は 養老年間 泰澄開山と伝へ 旧押水郷 三十二ヶ字の総社として 崇敬せられ 下社は崇神天皇の御宇創建と云はれ 旧大海一郷の総社にして応永年間能登国 守護畠山満則神領三百石を寄進せしと 伝ふが 天正十二年九月佐々成政末森城 攻撃に際し兵火に遇ひ社殿等灰燼に帰し 文禄三年神主甚之丞は紺屋町村名主佐介 と相謀り社殿を八ケ村の総社として再建し 現在は押水町字東間の氏神として崇敬される
境内の椿の社叢は近隣では気多大社の入らずの 杜に次ぐものなり 大橅は松雲公の時代に 其の配与を得たものなり 何れも昭和 四十七年 押水町文化財天然記念物 に指定さる

−境内由緒石碑より−



寶達山案内 寶達御前の由來
手速比咩神社の御祭神は手速比咩命と申し、またの御名は沼河姫(ぬなかはひめの)命と申します、而して大巳貴命の妻神様におはします、「あづま」の地名は之に起つたので即ち大巳貴命が日本國土全部を御平定の後出雲の國に凱旋せらるるに當り吾妻の地名を遺された次第です、手速比咩命は大凡三千年の昔越の國の國津神奥津久辰爲(おきつくしゐの)命の姫神にて賢女にましませし事は古事記の沼河姫命の記事にておして知る可しであります。
泰澄大師は地方民の最も崇敬篤かりし山麓に祀りてある手速比咩神を尊崇致しまして手速比咩神は常に此の森嚴なる寶達山に御鎭座ましますなりと荊棘を拓きて嶺上に神祠を建てて大御前と稱し其の下に伽藍を建立し次で僧坊七つを造營し元正天皇の御時には勅願所に定められ戰國時代までは神官社僧共に奉仕し神祠の尊嚴御神徳と共に四圍を普照せしも世の變遷と共に遂に廢寺に歸し僅に一小祠を存するに至れりと。
天正年間近江八平なる者御神託に據り寶達山に金鑛の鑛脈を發見し前田利長卿藩費を以て之を採掘せられ慶長年間嶺上神祠を再建して御神靈を手速比咩五柱神社と尊崇し御祈願ありしと云ふ。
今尚伽藍跡、坊屋敷、雄池雌池の遺跡を存せり、教のあと徴すべきであります。

−『平成祭データ』−


下社から東へ7Kmほど進むと宝達山山頂。
山頂にはテレビなどの送信塔が立っており、その送信塔の脇に上社がある。

上社の鳥居の横に案内板があり、
鳥居の位置がちょうどスカイツリーと同じ高さ(634m)なのだそうだ。

下社境内はツバキの林だったが、山頂上社境内はブナ林。
簡素な社殿の扁額には「宝達山大権現」とある。
上田村の覺左という者が米出浜に漂着した釈迦像を
神託に依り、社殿内に安置していたが、損傷が激しく、
明治中期に金沢の仏師によって作成された等身大の釈迦如来像と、
昭和三十年に前田川改修のおりに出土した大国象と恵比寿像が安置されている。


手速比咩神社上社社頭

スカイツリーと同じ高さ

鳥居

手速比咩神社上社境内

社殿

扁額に宝達山大権現

宝達山山頂送信塔の脇、手速比咩神社上社境内

宝達山頂手速比咩神社上社
能登国羽咋郡押水町宝達山頂鎮座
御祭神手速比咩神
御祭日春季祭礼
秋季祭礼
四月二十三日
九月二十六日、二十七日
御 由 緒
当神社は宝達明神又は宝達大権現と称し 能登国最高峰六三七米宝達山頂御鎮座の 手速比咩神社上社なり
御祭神の御名は手速比咩神と申し又の御名を 奴奈宜波比売命或は沼河比売命と申す
宝達山頂山麓両所に社殿あり上社下社と称す
山頂御鎮座上社は元明天皇御宇養老年間 泰澄大師の開基と伝へ一説には和銅年間 開山とも伝へらる
古来より旧押水郷三十二ヶ字の総社として尊崇され 戦国時代までは神官社僧共に奉仕すると伝へる
天正年間近江八平なる者御神託に依り金鉱を 発見しより加賀藩主前田利長公慶長年間 嶺上神祠を造営す
今尚伽藍跡坊屋敷の遺跡を存せり
山頂付近御手洗池たつ雄池雌池あり
境内撫林は昭和四十年五月押水町文化財 に指定さる

−境内由緒石碑より(原文ママ)−



【 手速比咩神社 上社 下社 (宝達志水町) 】

ボーダー




北陸地方
japanmap
全国 北海道・東北地方 関東地方 甲信越地方 北陸地方 東海地方 関西地方 中国地方 四国地方 九州・沖縄地方
富山県
下新川郡 朝日町
下新川郡 入善町
滑川市
魚津市
高岡市
黒部市
射水市
小矢部市
中新川郡 上市町
中新川郡 立山町
砺波市
南砺市
氷見市
富山市

石川県
かほく市
羽咋郡 志賀町
羽咋郡 宝達志水町
羽咋市
加賀市
金沢市
鹿島郡 中能登町
七尾市
珠洲市
小松市
能美市
白山市
鳳珠郡 穴水町
鳳珠郡 能登町
輪島市

福井県
あわら市
おおい町
越前市
吉田郡 永平寺町
今立郡 池田町
坂井市
鯖江市
三方郡 美浜町
三方上中郡 若狭町
小浜市
大飯郡 高浜町
大野市
丹生郡 越前町
敦賀市
南条郡 南越前町
福井市