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國坂神社
くにさかじんじゃ
鳥取県東伯郡北栄町国坂1500
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式内社 伯耆國久米郡 國坂神社 |
北条町国坂にある。日本海沿いに走る9号線から約1Km。
集落の奥にあるが、隣に野球場があり、子供たちが野球をしていた。
南には茶臼山という低い山がある。
祭神に諸説あるが、彦坐王は、日下部氏の祖神。
国坂神社は、資料によっては「クサカ」と読む場合があり、
このあたりも日下郷の一部であったという理由による。
伯耆国四宮とも呼ばれ、延喜式では四番目に記載され、
『久米郡神社帳』には四宮大明神と記されている。
祭神少彦名神にちなんだものか、当社では「薬草祭」という神事がおこなわれる。
三月(あるいは四月)八日、茶臼山から薬草ととって、
九日未明に海辺に持ち出して清め、その後参詣人に分かち与える神事。
少彦名神は、薬の神でもある。
道路脇の鳥居から西向きに参道を歩くと、
左手に野球場、突き当たりに神門がある。
境内奥、階段脇に門守があり、階段上に社殿がある。
社殿周りには、秋葉社・八幡社・荒神社などの末社。
本殿は大社造。大社造はかっこ良いぞ。
参道入口の鳥居 | 神門と社号標 |
境内 |
社殿 | 社殿 |
本殿 | 本殿 |
秋葉社 | 八幡社 | 荒神社 |
創建年代は不詳、鎮座の次第も伝わっていない。
神階は、承和四年(八三七)に従五位下、斎衡三年(八
五六)に正五位下、貞観九年(八六七)に正五位上を叙位されている。 醍醐天皇延喜の制に小社に列せられ、『朝野郡載』白河天皇承暦四年(一〇八〇) 六月十日の神祇宮謹奏に(中略)、社司が神事を穢したとして中祓を科せられている。 また、後世には武将の崇敬も篤かったようで、『鳥取県神社誌』・神社明細帳には、 「大永年間茶臼山の城主増田玄蕃当社再興の與あり」とある。これは 「大永の五月崩れ」と呼ばれる出雲尼子経久当国侵入の時に、 当社が衰退したことによると考えられ、大永四年(一五二四)以降のことであろう。 明治に入ると、元年に郷社に列せられ、同四十年二月三日には、神饌幣帛料供進神社に指定されている。 −『式内社調査報告』− |
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