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石門別神社
いわとわけじんじゃ
岡山県岡山市北区奥田363
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式内社 備前國御野郡 石門別神社 |
岡山県岡山市にある。
JR宇野線・大元駅の東1Kmほどの奥田に鎮座。
高校の南にあり、2号線から少し西へ入った場所。
社前を小さな流れがあり、橋を渡ると南向きの境内。
境内はあまり広くは無いが、典型的な街中の神社の雰囲気。
社殿も比較的新しいようで、拝殿内も綺麗に維持されている様子。
拝殿の後方に神明造の本殿が建っている。
参拝は、正月二日。
特に正月飾りなどは無いようだった。
社号の「石門別」は、いわとわけ、いわとあけとも読むらしい。
創祀年代は不詳。
備前国神名帳に「従二位 天津石門別大明神 坐三野郡」とある古社。
ただし、三野郡(御野郡)には、石門別神社と称する式内社が二社あるので、
当社のことかどうかは不明。
古くは、石神宮・石神社と呼ばれ、
中古には八幡宮とも称した神社だが、
寛延三年、式内社再興による石門別神社と改称したという。
境内の左手に南向きの稲荷社。眼病にご利益があるという。
境内右手には、西向きの小祠が二つあり、
本殿の右には、小さな石祠(末社)が四つ。
境内案内によると、境内右手の小祠は、
武甕槌命を祭神とする石神(右)と、
「あしおうさん」と呼ばれる石神(左)のようだ。
だが、特徴的な石は記憶に残っていない。
祠の中にあるのだろうか。
(その後、石祠(左)の前の平板が石神という情報をいただいた)
ところで、古くは石神社と呼ばれていたということから、
当時はこちらの小祠が当社の本体だったのではないだろうか。
その後、八幡宮と呼ばれるようになった頃、
境内社にされてしまったのかもしれない。
とすると、式内社・石門別神社は、この境内社の方じゃないだろうか。
などと想像しながらの参拝。
また、小さな石祠は若宮・荒神社・注連神社・愛宕神社と思われる。
社域 | 拝殿 |
境内 |
本殿 | 拝殿 |
稲荷 | 末社が四つ |
境内社、二つの石神、 左の石祠前の平板が「あしおうさん」らしい |
石門別神社の由来
この神社は、近世には石神宮・石神社と呼ばれていたが、寛延三年(一七五〇年)十二月大守肥後守を
中心とする 式内社再興運動が展開されたとき、この宮が古来から延喜式内社であり、祭神は従二位天
津石門別神であることから、当時の国司が岡山平野に石門別神社と改号し、こゝ田住と大供に祭られた
と伝えられる。天孫降臨にあたり天岩屋に神こもりし天照大神を、天児屋命が神楽を奏し、天鈿女命が舞楽をなし、 天津石門別神や手力男命などがおつれ申したと伝えられる。また、元明天皇が和銅五年(七一二年)大 安麻呂に命じつくられた 我が国最古の古典「古事記」には、光華明彩・六合照徹と云われ、その御威 光は広大無辺で宇宙万物を生成化育する御本源であらせられる大日霎貴別名天照大神が天孫降臨に際し、 「 天津石門別神など 」の功績が記され、古くからの伝説にもされている。 神は、人間にとって超越的な存在とされるあるもので、宗教的信仰の対象として、原始時代から人々 が何らかの不可知なものゝ存在に気づいたときに発する。 この氏神は、八世紀以前の時代から、地域の血縁・地縁的な集団の精神的統合と社会的連帯の強化の 中心として、人々から鎮守さま(別名産土神)として信仰され、祭られて参りました。 人々は自己の神性をとり戻し(ご利益を蒙るの意)、社会生活の意義を確め、神威を畏こみ神の恵み を仰いで、神の御加護によって(神の顕現発揮という)生きることの喜びをかみしめ、明日の生産・生 活に希望を力を得る源泉としてきました。 また、境内地の中には、武甕槌命を祭神とする石神と呼ばれる石及び「あしおうさん」と呼ばれる足 の病を治して下さる石神のほか、末社として若宮・荒神社、注連神社、愛宕神社がある。 いづれも簡素な建物ながら、その時代その時代の地域住民の連帯意識の拠所として引継がれている。 こゝに由来を記して、あらたかな御神徳を偲ぶと共に、広く地域の方々の信仰の拠りどころにして戴 きたいと念じます。 −境内案内板− |